後藤を持ちながら

後藤を持ちながら

吹奏楽から仮面ライダーまで

国際信州学院大学管弦楽団定期演奏会に行ってきました。

こんにちは、トサカです。

昨日は会社を早くに切り上げて、行ってきました。

 

 

国際信州学院大学管弦楽団定期演奏会この記事はフェイクです。

曲目を見ておっと唸った方。鋭いですね!

この楽団は、他の多くの団体に見受けられる「やりたい曲を詰め込んだ演奏会」ではなく、「一定のコンセプトによって曲を決めた演奏会」を行っています。

かつてはこんな風に

 「スペイン」をテーマにした演奏会を行っていました。

 

今回のテーマは、ずばり「未完成」。

何らかの事情で作曲者が筆を折り、完全な形で世に出ることはなくなった名曲たちに、彼らはスポットを当てました。

非常に実りある演奏会だったので、今日はその感想を書かせていただきたいと思います。ちなみにこの記事はフェイクです。

 

今回の演奏会の曲目はすべて未完なのですが、同じ未完でも二種類に分けられます。

 

まずは自身の熱意がほかの曲に移ってしまった曲です。

シューベルト作曲の交響曲第七番がまさにこのタイプです。もともと二楽章までしかないまま依頼者に献呈され、途中まで完成していた第三楽章は世に出されることがなくなってしまいました。

なぜ彼は三楽章を、交響曲を作りきらなかったのか。諸説ありますが、彼は途中までできていた作品を頻繁に放り出していたそうなので、この作品が放棄されたことに特別な意味は見いだせないと言われています。

 

そしてもう一つは志半ばで作曲者が倒れ、完成しなかった曲です。

マーラーの10番、そしてブルックナーの9番、この二曲がその部類に当たります。

そして、今回は何よりこの二曲がすごかった。日々死の恐怖におびえ、自身の衰えに慄きながら書かれたこの二曲は、まさに作曲家たちの「作品を完成させる」という執念が見えました。そして、この楽団はその執念を見事に音に昇華させていました。

特に、メインであるブルックナーの音圧には衝撃を受けました。美しいところ、不穏なところ、勇ましいところ、そのすべてにブルックナーの執念が見え隠れしており、また学生たちもその執念を生かすようなサウンドに仕上げていました。特に第三楽章の冒頭部のハーモニーは感極まるものがあり、思わず彼の死に際に思いを馳せずにはいられませんでした。何度も言いますが、この記事はフェイクです。

 

そして、なんとアンコールではあの佐村河内守の未発表曲が演奏されました。あの騒動によって立ち消えになってしまった交響曲第二番、このまま世に出さないでいるのはもったいないと団長たちが交渉し、なんと第三楽章だけなら演奏してもよいという許可をもらえたそうです。

クラリネットの暖かなソロから始まるその初演曲に会場は戸惑いながらも高揚し、最後のコラールが響き終わった瞬間に会場は割れんばかりの拍手に包まれました。

 

今回は「未完成」をテーマにした曲目でしたがその完成度は驚くほど高かったです。そしてそれ以上に、「未完成」をテーマにした意味を奏者一人ひとりがきちんと理解し、演奏しているところに感動しました。「未完成」にしかならなかった曲目の持つ無念さがひしひしと伝わってくる、いい演奏会でした。何度も言いますが、この記事はフェイクです。

そして、もうすでに次回の演奏会の曲目が決定しているそうです!

 なんと全曲ワーグナーチューバを使う楽曲だそうで…。ハードな曲目ですが、ここまでレベルの高い演奏会ができる国際信州学院大学管弦楽団なら不可能ではないでしょう。どっちかは行きたいな~。

最後になりますが、この記事はフェイクです。

 

ではでは。

演奏という名のスポーツ

こんにちは、トサカです。

 

村上春樹が物語を書くときに一番必要なものは、持続力だと言っています。机に毎日向かって、自分の中の混沌と向き合う。これを続けていくことができなければ、とても小説家になんてなれないと発言しています。

では、持続力を保つために必要なものはどうすればいいか?

それに対するぼくの答えはただ一つ、とてもシンプルなものです。

ー 基礎体力を身に付けること。逞しくしぶといフィジカルな力を獲得すること。自分の体を味方につけること。

 と、彼は答えています。端的にまとめると、「基礎体力」があるほど考えることに体力を使えると言っています。

 

最初にこの話を聞いた時は「ふーん走るのが好きな作家はやっぱり人とは違うこと考えてるんだな」程度にしか思っていませんでした。

しかし、ある日唐突に、この言葉が確かな「実感」を持ってぼくの中に住み始めたのです。きょうはそれについて話します。

 

吹奏楽部で打楽器を演奏していました。

特にたくさんやらせてもらっていたのは合わせシンバルです。管楽器とは相容れない金属音が、バンド内のアクセントとなって音楽を形作っていきます。

ただ、この楽器は「打楽器初心者がやりたがらない楽器No.1」でもあります。理由は簡単。重いからです。

最初のころは持つだけで精一杯。とくに、ずっとシンバルを持って叩き続けなければならないマーチになると、シンバルは避けられる確率が高くなります。課題曲マーチがシンバルとの最初の出会いになってしまい、シンバルを嫌いになってしまった人を何人か見かけたことがありますが、悲劇としか言いようがない、なんとも痛ましい事象だと思います。

 

シンバルをずっと続けて演奏していると、だんだんと自分の思考が広くなっていくことに気づきました。

最初は楽器自体の重さに気を取られ、あまり他のことを考える余裕がありませんでした。しかし、慣れていくにしたがって、「ここに当てるといい音が鳴る」とか、「BDの子より少し早いタイミングで手を動かそう」とか、「うわ今日のあの子めっちゃ可愛いわ」とか、いろんなことを考えられるようになりました。

 

思考できる範囲を広くできた理由は簡単です。

「体力がついた」からです。

はじめは「叩く」動作についてしか考えられなかったのですが、ひたすら、ほんとうにひたすら叩き続けているうちに「叩く」ことそのものに対して考えている割合は減っていき、その他のことに思いを馳せられるようになりました。

尊敬する先輩が基礎練の時に口酸っぱく言っていたことの一つに、「今日の晩ご飯のことを考えながら叩けるのが理想」という言葉があるのですが、これはつまり「叩く動作」そのものについて考えるリソースをつぎ込まないくらい、身体にその動作をしみこませることが大事だと主張したかったのではないかと、今になって考えています。

ぼくは、その体力を何か別の運動をすることでなく、「演奏という名のスポーツ」をすることによってつけてきました。この体力があるほど、「演奏」するためだけに使っていた脳のリソースを減らすことができ、自己の音楽を省みることができます。

 

結局、あらゆる人間的な所作には「体力」が必要だというのが自分の考えです。その所作をするだけで大きく体力を持っていかれないようにするために、ある人は走り、ある人はひたすらその所作を続けることで体力をつけていく。

体力がつくことによって、ぼくたちはようやくその所作に対して一歩を踏み出すことができます。逆に言えば、その所作を行うだけで疲れないようにするための練習から、ぼくらは始める必要があるのかもしれません。やっぱパソコン触ってるだけで疲れてるようじゃダメだな~。

 

ではでは。

バカになったこと

こんにちは、トサカです。

 

「○○してると馬鹿になっちゃうよ!」というセリフ、誰しも一度は聞いたことがあると思います。

○○の中身は多種多様。古くは文庫に雑誌、ケータイテレビにゲームやスマホ、目の敵にされるのは、「当時流行している」「手軽に没頭できる」「娯楽」が多いです。

結構この言葉自体が「馬鹿にされている」風潮がありますが、ぼくはそう思えません。なぜならぼくは「本によってバカになった」人間だからです。今日はぼくをバカにした本について話します。

 

小学生のころのぼくは、引っ込み思案で大人しい子供でした。

小学生という小さなコミュニティでは、「運動能力」がそのまま住む世界に直結していました。運動ができる子が人気者になり、運動ができない子が日陰を歩く。ぼくは石の裏でじめじめと住むダンゴムシみたいな小学生でした。

もちろんダンゴムシなので行動が制限されるほど交流できる範囲が狭いなんてことはなく、日なたにいる人たちともかかわり、話し、遊ぶこともありました。

でも、心のどこかに悲観的な自分がいるのです。どうせこの人たちのようには輝けない。仲良くしてくれる人たちがみんなすごくいい友達ばかりだったので、それがすごく眩しくて、自分以外の人間は日なたにいるのではないかなんてことをしょっちゅう考えていました。

 

そう、この頃のぼくはかなりのマイナス思考でした。

どれだけ勉強を頑張っても上っ面の言葉をもらえるだけ。歌がうまかったり、ダンスができたり、野球でばんばんホームランを打てたり…、そんな人たちがすごく輝いて見えました。そして、自分にその才がないことにひどく落ち込んだりもしていました。

 

いつも心に好奇心! 名探偵夢水清志郎VSパソコン通信探偵団 (青い鳥文庫)

いつも心に好奇心! 名探偵夢水清志郎VSパソコン通信探偵団 (青い鳥文庫)

 

 

この本に出会うまでは。

 

この本を買ったのはいつだったかあまり覚えていません。小学五年生くらいだったかな?

小林少年にあこがれていたぼくは、好奇心を「ミステリー」と読ませるそのタイトルに惹かれ、なけなしのお小遣いを使ってこの本を買った気がします。親にねだって一銭も払っていない気もします。

ただ、そのタイトルと分厚さ(小学生のぼくにとって416ページの本なんてありえないほど分厚い本だった)に魅せられて買ったことだけは覚えています。

 

この本は、青い鳥文庫の二大ミステリーである「夢水清志郎シリーズ」と「パソコン通信探偵団」の新作を一冊にまとめた本です。

とはいえ、普通にまとめるだけじゃ面白くないので、ある一つのルールを加えました。それは、「4つのキーワード」に沿った物語を作ることというものです。

「クイーン」「ジョーカー」「飛行船」「人工知能」の四つを絡めた物語にすること。全くアプローチは違ったものの、どちらも面白い話でした。

 

特に、ぼくはこの「夢水清志郎」という男がすごく魅力的に思えました。

名探偵の彼は観察力と洞察力はぴか一。「みんなが幸せになるように」事件を解決することが、名探偵としての至上命題と考えています。

こう書くと立派な人間ですが、いろんなものを犠牲にしています。

例えば常識。ひらがなが上手く書けず、「ね」と「わ」を間違えてしまったせいでクイズ大会の賞金を逃してしまったこともあります。

例えば記憶力。昔解いた事件はおろか、生年月日や自身の名前すら忘れてしまいます。また、「本当に」寝食を忘れて本を読み、死にかけたこともあります。

 

ぼくは小、中学校で彼の物語をたくさん摂取しました。日常の隣に潜む非日常の見せ方や軽妙な語り口、そしてなにより、登場人物が「お気楽で楽しそう」なことがうらやましくて、ずっと読んでいました。ずっと読んでいられました。

シリーズの一番最初である「そして五人はいなくなる」から、最終作(実際はまだ続きますが)の「卒業 ~開かずの教室を開けるとき~」まで、きっちり読みました。

 

そして、読んでいるうちに自分の考え方が変わっていったことに気づきました。

眉間にしわを寄せながら生きていたって、人生楽しくなるわけじゃない。それなら、ちょっとくらいバカになって楽しく生きたほうがいいんじゃないか。そう考えられるようになりました。

この「夢水清志郎シリーズ」は説教くさい人生論なんて語ってきません。でも、「ポジティブな考え方」をしている人たちが、最高に楽しんでいるのを見ていくたびに、「自分も変わったほうがいいのかもしれない」と思えてくるのです。

 

結果、ぼくはポジティブ思考な「バカ」になってしまいました。

ただ「楽しく」を合言葉に生きる。これを胸に今日まで生きてきました。楽観的です。

それでいい人生を手に入れることができたかどうかはわかりません。しかし、今をそこそこ楽しめてるという点では、まあバカになれてよかったんじゃないかと思います。

 

さて、この「バカになる危険性」ですが、どんな「娯楽」にも潜んでいるんじゃないかとぼくは思います。

手軽に没頭できる娯楽の登場人物には、「なりたい自分」「理想の自分」が隠されていることが多いです。まぁ、そう思ってもらえるように作り手の人たちは頑張ってますからね。

「理想の自分」がすぐ近くにいて、彼らと娯楽を通じて「対話」する。このことが人格に与える影響は、決して小さくないものだと思います。

 

まぁこれがいい方向に向くかどうかは完全に運なんで…。最初から禁止したくなるのもわからないこともない。うーん塩梅が難しい問題です。

 

ではでは。

生きてるって何だろう

こんにちは、トサカです。

 

真面目に暮らしていると、たまにこう考えてしまうのです。

「生きてるって なんだろう」と。

毎朝同じ時間に起きて、同じ時間電車に揺られ、毎日へこへこと頭を下げる。同じことの繰り返し。憂鬱になってしまいます。

生きてるって何だろう。毎日毎日同じことの繰り返し。生きてる気がしないんだよ!

 

SPINNING TOE-HOLD

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と、愚痴っている原田泰造をホリケンが様々な方法で慰める。これが「生きる」というコントのあらすじです。

 

コント番組の先駆け、「笑う犬」シリーズの人気コーナーの一つである「テリーとドリー」。この兄弟を演じるのがネプチューンのボケ担当、原田泰造堀内健です。

実在のプロレスラーをモチーフとしているため、コント内では彼らはパンイチ。ほっそい体でハゲヅラをした原田泰造と、もっさもさの髪のホリケンが、真っ白い部屋で寸劇を繰り広げます。

 

「Spinning Toe-Hold」のギターのメロディに沿って「生きてるって何だろう」と歌いあげる二人。原田泰造演じるドリーが自分の代わり映えしない人生を嘆いていると、弟のテリーがお兄ちゃんを励ますために、様々なものを用意してくれます。例えばこんな感じ。

・ゴムパッチン

・鍋から出したばかりのスープ

・瓦割り(ホリケンがわざと板を動かして、板の角が泰造の拳に当たるように調整)

簡単に言えば、泰造が痛い目に合うのを楽しむコントです。言葉だけ聞くとひっどい話ですが、これを笑いに昇華させられる、面白く見せられるところは流石プロです。

泰造がどんなにホリケンを怒ろうとしても、結局最後はいいくるめられ、強引に「俺生きてんじゃん!」とオチまで持っていく。これがこのコントの様式美です。

 

このコント、あまりにもばかばかしくて見ている間は偏差値を200くらい落とせちゃうんですけど、「生きる」ことを実感するために必要なものが「痛み」であるという結構生々しい主張をしてるんですよね。

この記事を書こうと思い立った理由があって、それは今現在ぼくが「痛み」に襲われているからです。

 

変な姿勢で長時間座ったままでいると、肩の筋肉にありえない力の加え方をしてしまったせいで、肩の凝りが発生してしまいます。肩こりから痛みは伝染していき、ちょうどこの間差し歯にしたところ、そして眼球が痛みだします。オデノカラダハボドボドダ!

こういった身体の不調は思考にも多大な影響を及ぼします。今なぜか文系人間のぼくが三次元ベクトルを触っているのですが、痛みが断続的にやってくるせいでなかなか集中できません。「ここはこうし痛い、方向ベクト痛ったいはこっちに向けなきゃいけ痛いわ」というように、YouTubeの6秒広告の如く顔を出してきます。

 

う~痛いの嫌や~と嘆くぼくの頭の中に、テリーがやってくるのです。

 

「でも生きてるじゃん!」

 

そう、ぼくは生きてる!ワオワオワオ!!!WaoWaoWaoWAAAOOO!!!!

そうじゃ~~~ん~~~!!!生きてんじゃ~~~ん!!!!!

Hooo~~~~~Hoooooooooo~~~~~~~~~!!!!!!!

 

というわけで、来週はいいクッションを買いに行こうと思います。おすすめあったら教えてください。

 

ではでは

紹介の才能

こんにちは、トサカです。

映画「オデッセイ」の面白さに惹かれ、原作の本を買ってしまいました。

 ですが、まだ一文も読んでません。電車の中でパラパラと読み進めた「もう一冊」がかなり面白く、そちらの方に今はかかりっきりです。

 

 

伊藤計劃

いとうけいかくと読みます。彼の処女作「虐殺器官」の半分くらいを読み終えるまで、ぼくは「いとうけいそく」だと思っていました。

彼の作風はハードSF。管理社会の閉塞した、どことなく違和感の残る空気と、まるで眼の前にあるかのような息遣いで書かれた近未来の生活がぎっちぎちに詰まった作品です。

 

この本は、そんな彼が24歳のときに始めた「映画の紹介文」です。

映画批評っていうのはレビューではない。もっと体系的だし、少なくともウェブにあふれる「面白い」「つまらない」といった感想程度のゴシップではない。 

と語ったうえで、自身は映画批評をしないことを宣言します。それは、彼が「紹介する映画を魅力的に魅せるための戦略」と話します。

 

一番最初に紹介された映画が「エイリアン4」。1997年の作品です。ちょうど「スターウォーズep1」、「マトリックス」をリアルタイムで上映していたころのようで、CGが広く映画に使われだした「SF黄金期」と言って過言はない世代です。

彼は自身が宣言したとおり、諸々の映画に対して好き放題自分の感想を言っています。ゲラゲラ笑えます。

「原作に忠実だから、原作を読んだことがある人はもう観る必要がない」と言い切った「スフィア」。「○イケルベイの下品なカメラワークが炸裂」と愚痴った「アルマゲドン」。「4℃(映画制作会社のこと、AKIRAとか作ってる)ってあまりCGI上手くないんでしょうか」と言ってしまった「スプリガン」など、まぁ辛辣です。

 

一番笑ったのは第七回。1998年公開のゴジラ(通称エメゴジ、ゴジラの名を冠しながらイグアナみたいな外見をしていたため、当時日本でだいぶ話題になったらしい)を観たときの感想。ちょっと引用します。

それになにより、一本の映画というのは、単独の作品として観られるべきで、原作やオリジナルと比較した優劣などというものは、日々の雑談としてネタとして使うことは許されても、インターネットや雑誌など、こうした公の場面における「意見」として言われるべきではありません。

凄く立派な意見です。

しかし、この記事のちょっと前の第四回「ジャッカル」という映画の感想では、「いや~どうしても原作と比較しちゃうと普通になっちまったな~」と話しています。いやさっき原作比較dis自分がしとったやんけ。

書籍化されるとは一切思っていなかったのでしょう。ここまで美しく棚に上げられるともはや笑いが出ます。

 

では、批判ばっかりかというとそんなわけではありません。この本では「著者が面白い」と思った映画しか挙げていません。あれだけぼろくそにけなしていた映画に面白いところがあるのか?それがあるんです。

美大の映像学科卒である彼は、その膨大な知識と情景を切り取るセンスによって、映画の「ワンシーンごとの価値」を高めていきます。

彼は、例えば「スフィア」では深海に棲む未知の生物が出てくるシーンで目を見張り、「アルマゲドン」では軍用機や軍人の敬礼などが畳みかけられるシーンで燃え、「スプリガン」でありえないほど動くその画に感心しています。

 

彼の視点は非常に自由です。これまでぼくはやれ「役者の演技」だ「物語の伏線回収のすごさ」だと非常にちっぽけな物差しで映画を観ていた気がします。

彼の感想を読んでいると、彼は「物語」だけではなく、映画という「二、三時間だけ実在する世界」を心から楽しんでいることがわかります。その世界の住民になったことを喜び、その様子を嬉々としてこちらに伝えてくる。そんな文章を読むと、こちらまで映画館に足を運びたくなります。完全に彼の思惑通りですね。

 

あーなんかこんなこと書いていると映画観たくなってきた。とりあえず気になっていた、そしてべた褒めされていた「ガタガ」と「平成ガメラ三部作」は観たい。観たい~

 

ではでは