後藤を持ちながら

後藤を持ちながら

吹奏楽から仮面ライダーまで

言葉の間にあるもの

こんにちは、トサカです。

ド三流プログラマとして日々職務を全うしています。

実際にプログラマとして働いてみると、「自分の考えを相手に伝える」機会の多さに驚きます。

今日は、まずは高校の頃の英語の先生の話から始めましょう。

 

発音好きの先生

 

高校三年生、大学入試に向けてガンガン受験勉強を行う時期ですね。

寒くなるにつれ、生徒も先生も目つきが鋭くなっていきました。みんな緊張してましたね。

高校生が学校で勉強する際に、一番重視するのは先生との相性です。先生の教え方が上手ければそれだけその教科に愛着がわくし、そうでない場合はそれなりの熱意しか持てなくなってしまいます。

 

英語の先生は、決してうまい先生ではありませんでした。

彼は授業の中で、試験でなかなか点に直結しにくい「スピーキング/リスニング」にかなり重点的に時間を割いていました。

おそらく受験英語の先にある、「海外でも通用するレベルの語学力」を身につけるためにこのような教え方をしていたことが、今ならわかります。

ただ、当時のぼくは、プレセンター試験の第一問にある発音問題で執拗なまでに口の形を確かめながら発音させる先生の授業にもどかしさを感じていました。

正直、あまり自分と合っていなかったのだと思います。

 

でも、その先生の教えの中で印象に残っているものがあります。「中間言語」という考え方です。

 

英語と日本語の間

 

例えば、以下のような文章を英訳するという問題があったとしましょう。

私は昨日、サッカーの試合を観た。

答えは " I watched a soccer game yesterday."ですね。

この答えを出す際に、「脳みそは無意識に以下の処理を行っている」、というのが「中間言語」の考え方です。

 

 私は昨日、サッカーの試合を観た。  (日本語)

私 観た サッカーの試合 昨日.   (中間言語

I watched a soccer game.       (英語)

 

つまり「中間言語」とは、相手国の言葉が受け入れやすい形で、自国語を文法レベルで作り替えた言語だと定義できます。

この考え方を知ってから、英訳や和訳をする際に少し楽にできるようになりました。まずは日本語を英語の順に並び替えて、それから単語をそれぞれ英語に変換する。この2ステップだけだと考えると、そこそこ長い文章を訳すことになってもなんとか訳すことができる!という気持ちが出てきます。

そして、この考え方は現在でも役に立っています。

 

 日本語と日本語の間

 

これまで生きてきて、日本語同士でしゃべっていても意思疎通ができていないと考えることがよくあります。これは別に自分がコミュ障だからとか、相手の理解力が低いからとかではありません。

「同じ言葉を話していても、それぞれ別の解釈として捉えている」からです。

 

たとえば、母親が息子に向かって「お風呂みておいて」と言います。ここで言う「みる」とは湯加減の確認や、お風呂があふれないようチェックすることですね。

すると息子はお風呂を「みる」ことに専念します。彼はそこまでの意味をくみ取れず、ただ風呂にお湯がたまっていくことを「みる」のみに徹します。

各々が「みる」という単語を別々に解釈しているため、意思疎通が図れなかったのです。

 

ぼくはこのことに気づけたのが、ちょうど「中間言語」の話を聞いた後くらいです。

翻訳の際の「日本語と英語の中間言語」による処理は、これまで自分が無意識に行っていたものです。日本語同士でも同じように、脳みそが無意識のうちに「自分がわかりやすいように相手の言葉を翻訳している」ことに気づけたのです。

 

最近、相手の言葉の真意がわからなかったときは、ひたすら聞き返してその単語の持つ意味を解釈しようとしています。そして、何度も試行錯誤を繰り返して、相手と自分の「無意識な翻訳のずれ」の原因がわかった時、達成感が生まれます。

自分の思っていることを100%伝えきる言葉なんて存在しません。それでも日本語という構造物を少しでも上手く使って、なんとか自分の言いたいこと、相手の伝えたいことを拾えるよう努力していきたいです。

 

ではでは