後藤を持ちながら

後藤を持ちながら

吹奏楽から仮面ライダーまで

そこで鳴っているのは

こんにちは、トサカです。

 

最近ツイッターで「被害者の気持ちになりきれていない展示物」の話題をいくつか聞いています。

ゲートキーパーとして友達に話しかけよう!というものや、学校が辛くても「みんなが」いるよ!と訴えかけるもの。まぁ言いたいことはきちんと咀嚼すればわかります。

しかし、「本当にそれと戦っている人たち」にとって、そのメッセージは「きつい」以外の印象を与えられないだろうな…と思えるものでした。

このポスターを担当した人、または部署の伝えたいメッセージが本当に「そこ」にあったのか。それとも大人の事情で角が大きく取れて、色々と欠けたまま世間に出てしまったのか。本当のことはわかりません。

 

さて、そのつぶやきでは、ポスターの画像とともにこんな言葉がつけられていました。

「死にたいと思ったことのない人が作ったんだろうな」

ぼくは違和感を持ちました。

 

ぼくは、人は大なり小なり絶望し、死にたいと思ったことが少なくとも三回くらいはあると考えています。突発的に起こるそれは星の公転周期のようなもので、十何年に一回の人もいれば極端に短い人もいると思います。その時の周りの環境であったり、その人自身の性格であったりが緩和剤となるのですが、たまたま運悪く緩衝材が少ない時期に「死」と向き合ってしまう人が、大きな傷を受けてしまうのでしょう。

もしこのポスターを作った人が100%純粋な気持ちで作っているとしたら、その理由は「死にたいと思ったことがない」からなのではなく、「死に直面した時、緩衝材が周りにいっぱいあった」からなんじゃないかと思います。

 

では、「深く絶望した人が世に放つ作品」とはどんなものなのか。ぼくは、Syrup16gの「生活」がまさにそれだと思います。

 

生活

生活

  • provided courtesy of iTunes

 からりと乾いたギターのストロークを皮切りに、バンドの演奏が始まります。スネアがアクセントを混ぜた小気味いいルーディメンツを決めた後、こんな歌詞がぼくらの耳に突き刺さります。

 

君に言いたいことはあるか

そしてその根拠とは何だ

涙流してりゃ悲しいか

心なんて一生不安さ

 

きつい。あまりにきつい言葉。

この歌はこんな感じで、「君」への、ほぼバッシングに近いような問いかけが続きます。この「君」とは誰なのか。それはサビで明示されます。

 

I want to hear me

 

生活はできそう?

それはまだ

 

計画を立てよう

それも無駄

「I want to hear me」という歌詞から、この歌は自分への、どうしようもないほどの不安で押しつぶされそうな自分への質問ということがわかります。

 

きちんと人並みな生活はできそうですか?しんどいから無理です。

じゃあ今から人並みな生活を送れるように、きちんと過ごせる準備をしよう!どうせしんどくてやめます。

 

すごくわかるんですよねこの気持ち。

どうしようもない生活を送っていることは、自分が一番よくわかっている。変わらなきゃいけないと危機感を抱く自分がいる。

その一方で、現状が辛すぎて「普通の生活をする」ことですら頑張ってやらなきゃいけない。すぐ根を上げてしまうことに気づいている自分もいる。

前者の自分は、もう何回も見た後者の自分の姿があまりにも情けなくて、ついつい苛立ちを覚える。それを見て後者がさらに萎縮し、結局疲弊してしまうという悪循環がめぐってしまいます。

 

そして、何より衝撃を受けたのが、この曲の最後です。

何回も、何回も不毛な自問自答を繰り返したこの曲の最後は、情景描写で終わります。

 

そこで鳴っている

そこで鳴っている のは目覚まし

 

そこで鳴っている

そこで鳴っている のは目覚まし

 

そこで鳴っている

そこで鳴っている のは目覚まし

 

そこで鳴っている

そこで鳴っている のは目覚まし 時計

 

目覚ましが鳴っている、と何度も繰り返すのです。

高校生の頃は、「あんだけうじうじ悩んでたのに、結局夢落ちか~」なんてことを考えていました。でもそうじゃないんですよね。

 

目覚ましが鳴っていたら皆さんどうします?

普通だったら鳴らしたままにせず、目覚めて止めますよね。

そう。「鳴っている」んです。鳴っているという事実だけが何度も歌われている。でも目覚ましは止まらない。これはどういうことか。

 

きっとこの曲を書いた人は、目覚ましを「止められない」んです。

普通の生活を送るという「理想」と、それすらかなえられない「現実」に夜通し自己嫌悪に陥って、簡単には陸に上がれないほど深いところにまで行ってしまった。

疲れ切ったまま目を覚ますと、目覚ましが鳴っている。という認識まではできます。でも、そこから手を伸ばし、「目覚ましを止める」ということができない。

 

深いところまで潜っていってしまうと、周りのことがどうでもよくなってしまうのです。

三日くらいおんなじパジャマで、ひげも伸びっぱなしだけどまあいいか。今日は朝も昼もご飯抜いちゃった。ちょっとふらふらする。でもまあいいか。なんか目覚ましが鳴ってる。うるさいなぁ。でもどうせすぐ止まるしまあほっとけばいいか。

こんな感じで、すべてがどうでもよくなっていきます。こうなると基本的にベッドの上から動けません。ずっと寝てる。何も考えずに寝ているだけの「生活」をしてしまいます。なので、「目覚ましが鳴っているけど止められない」のはかなりの重傷だと思います。

 

布団をかぶりながらイヤフォンで音楽を聴くと、「世界でたった一人きり」になるような錯覚を覚えます。でも、それ以上に音楽との、そして音楽を作った人との濃密な対話ができます。

どうしても寂しくて、不安になった時、Syrup16gの音楽はそばに寄り添ってくれます。きっとこれから先も彼らの音楽は、ぐしゃぐしゃになってしまった時のぼくの「緩衝材」になってくれるのでしょう。あのポスターを見ながらそんなことを考えていました。

 

あぁーそれと高校の頃友達にRADWIMPSのバンドスコア借りたままだったこと思い出した。わかってるよ返すから。そんな催促しないでくれ。

 

ではでは。