後藤を持ちながら

後藤を持ちながら

吹奏楽から仮面ライダーまで

綺麗な人

こんにちは、トサカです。

諸々あって文章を書くことが苦手だと痛感し、毎日ブログを書こうと決めてから早二か月。

なんとか手を変え品を変え、飽きもせず書き続けることができています。

日々書いていく中で、「今日はすごくすとんと落ちる文章を書くことができた!」と実感できる日があります。

ぼくは、「相手の想像力を制限する」ことができている文章かどうかが、その日の出来を大きく左右していることに、最近気づきました。今日はこの「想像力の制限」について話そうと思います。

 

例えば、こんな文章を書いたとしましょう。

目の前に、綺麗な女性がいる

この文章を見て、どんな光景が思い浮かぶでしょうか?

 

 

例えば、たまたま買い物に来たコンビニで、レジをしてくれた店員が綺麗な女性だったという光景が想像できます。または、授業を聞き流しながら、前の席にいる好きな女の子の背中を眺めている高校生のことを思い浮かべることだってできます。あるいは、画面の奥にいる「女性」に熱をあげている人のことだと考えることもできます。

 

そう、これだけだと圧倒的に少ない。いくらでもその「光景」を聞き手の想像力で作り出せてしまうのです。

この文章で分かることと言えば、

・少なくとも二人以上の人間(女性と「話し手」)が存在する

・二人の物理的な距離が近い

ことくらいでしょう。

「想像の余地を残したい」ような性質のものでない限り、これはあまりよくない文章であると考えることができます。

 

では、次のような文章はどうでしょうか。

目の前に、背筋の伸びた綺麗な女性がつり革を掴んでいる。

少し表現を足すだけで、見える光景ががらりと変わります。この二人は公共機関の乗り物に乗っていて、その瞬間たまたま互いの存在を認識した、もしくはその瞬間たまたま互いの存在を認識した「ような」展開が来ることを予想させます。

また、曖昧模糊としていた「女性像」についても、だいぶ焦点が絞られました。車内でもきちんと姿勢よく立てる人だという情報から、きっと品行方正で、小さい頃から礼儀作法をきちんと学んできた、芯が強くて美しい人なのだという想像ができます。

 

何でもない一文にちょっとだけ情報をつけ足すことで、女性と話し手がどのような状況なのか、そしてこれから話し手は女性をどのような人物として描きたいのかをうまく表現することができます。

このように、いい文章は相手の「想像の余地を摘む」ことで、自身の伝えたい情報を最短距離で伝えるものである。と最近は考えるようになりました。

 

ただし、この「最短距離」というのがなかなか曲者です。

そのときは「過不足なく」伝えきれていると思っていたものの、後から見返すと冗長な文章になっていたり、あるいは逆に端折りすぎて言いたいことが分からなくなっていたりします。

最近でこそ「あ、ここはちょっと無駄足だしカットしよう」と書きながら考えられるようになったものの、最初は全くわからぬまま突っ走っていたので、訂正の数が非常に多かったです(今も推敲の時間は必要ですが)

「何を書いて、何を書かないか」の選択眼は、ある程度経験と知恵が身につかないと養われないのでしょう。

 

まだまだ精度は高くはないですが、これから必死で書くうちに「いい文章」の打率も上がっていくのではないかと思います。選択眼が身についたら、もっと綺麗な文章を書けるようになるでしょう。なるはずです。なるといいなぁ…。

 

ではでは。

 

49:37