後藤を持ちながら

後藤を持ちながら

吹奏楽から仮面ライダーまで

パッチワーク ~How to make my story~

こんにちは、トサカです。

Spotifyでいろいろな音楽を聴いています。かつてはそこまでカバーできていなかった「日本の吹奏楽バンド」も、この一年でだいぶ収録CDが増えています。

その中でも最近一番意表を突かれたのがこれ。

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白鳥の湖によるパラフレーズ」です。

曲の題名にもあるように、この曲は白鳥の湖をはじめとしたチャイコフスキーの有名な曲のフレーズがいくつも出てきます。ときには静かに、ときには大胆にアレンジされたチャイコフスキーの名曲が次々と繰り出されます。

ときには静かに、ときには大胆にアレンジされたチャイコフスキーの名曲が次々と繰り出されます。

これとコンセプトが似た曲として、ヨハン・デ・メイの名曲「extreme makeover」があります。

Extreme Make-Over

Extreme Make-Over

  • Bläserphilharmonie Baden Württemberg & Toni Scholl
  • クラシック
  • provided courtesy of iTunes

こちらは「弦楽四重奏曲第一番」をベースに彼の様々な曲をリミックスし、すさまじい疾走感で16分を駆け抜けていきます。

どちらも使っている素材は同じですが、全く違う景色を見ることができて楽しいです。

 

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吹奏楽というジャンルの中で名交響曲を教えてください。という質問がもしあれば、多くの人がジェイムズ・バーンズの「交響曲第三番」をその候補に挙げるでしょう。

人の持つ感情の振れ幅や起伏を丹念に歌いあげた本作は、1996年の初演から多くの聴衆に親しまれ、今なおその輝きを増しつつあります。

 

この曲の製作を依頼された当時、彼は幼い娘を亡くしたばかりだったそうです。失意の中取り掛かりはじめたこの曲は、これまで彼が作った作品の中でもかなり自身の感情を吐露したものになっています。挫折や苦しさ、皮肉やほろ苦さ、悲しみ、そして全てを受け入れ息子の誕生をかみしめられる喜び。

彼が体験したこの悲しい出来事は彼を表現に駆り立て、そして多くの人の心をつかんで離さない名曲を作る土壌となりました。

 

このように、自身の体験した大いなる困難や、衝撃的な出来事をモチベーションに表現する人は多いです。その時に受けた傷を癒すため、こんなにも悲しい出来事があったと後世に伝えるため、これまで通りではいられなくなった自身と客観的に向き合うため、彼らはそれをばねに何かを表現します。「はだしのゲン」のように、その出来事と一生向き合う覚悟をもって表現し続けるというすさまじい精神力を持つ方もいらっしゃいます。

 

では、振り返ってみて自分はどうか。

ないんですよね、そんな経験。平々凡々ではあるけれどこれといった大きな困難もなく生きてくることができました。時々悲しい出来事は起こりはするものの、生涯をかけてその存在と向き合うような出来事(例えば革命であったり戦争であったり飢餓であったり)とは、幸いなことに縁がありません。

また、たとえ悲しく重たい出来事があったとしても、それらとはなるべく距離を置いて生きてきました。なるべく楽しいことに目を向け、少しでもそれらを塗りかえようと必死になります。それを踏まえると「一生をその出来事に費やす人」のもつ精神力のすさまじさに圧倒されます。

 

では、重たくて深い出来事を持っていないぼくは、ではどうやって語ればいいのか。

大きなものを持っていないのなら、小さいものを繋ぎ合わせるしかないのです。

これまで体験してきたちょびっとだけ不思議な出来事であったり、変ではないけど少しだけ変わった癖を持つ人であったり、怒るほどではないけれど、なんとなく物悲しいニュースだったり、そういった自身の小さな実感に基づいた経験を縫い合わせていくことしか、物語を描くことはできない。曲がりなりにも三か月毎日書いてみて、実感したことです。

ぼくの頭の中には、様々な体験が布きれのようにまとめられています。個々の素材だけで見てみると、それだけでは扱いきれないものばかりです。薄くてぺらぺらな体験。仰々しい色をしたニュース。生地としては大きすぎてまとめきれない友人。こうした色も形も生地材料も全く違うような、自身の記憶のなかにある布きれたちを加工し、縫い合わせることで一つの物語をようやく作ることができます。ぼくは、何かを書く作業がパッチワークに近い作業であると最近気づきました。

 

一番最初に挙げた二曲はチャイコフスキーの楽曲を「パッチワーク」によって再構築していますが、どちらも「作曲家の個性」がきちんと出ているのです。前者は緊張感のある弱奏が疾走感を生み出している点が、後者はこってり濃厚な金管のハーモニーが、それぞれ「らしさ」を醸し出しています。

完全な「借り物」を素材としているにもかかわらず、

・何に着目するのか

・素材たちをどうつなげるのか

・個々の部分をどうまとめ上げるのか

が違うだけで全く毛色の違う作品が出来上がることを、この二曲の存在が示しています。素材はどんなものであろうと、自身の「パッチワーク」の技術さえあれば「自分の個性の輝くもの」ができるのです。

けっして「上手い」わけではないけれど、これからも必死に縫い合わせていきたいと思います。

 

ではでは。