後藤を持ちながら

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吹奏楽から仮面ライダーまで

中動態の世界に誘われて

こんにちは、トサカです。

本を読んだので、今日はそのあらすじと感想をまとめていきたいと思います。

 

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく)
 

積読することはや四か月。ようやく最後まで読みきることができました。 「中動態の世界」という本です。

 

大学院で「スピノザ哲学」を専攻としていた哲学者である筆者が、今は息をひそめてしまった言葉である「中動態」をテーマに論を展開していきます。

出版社や本の題名の横の「ケアをひらく」という文を見ていただくとわかるのですが、この本は医療関係者、特に依存症患者に対する心のケアをするうえで理解しておかなければならない考え方として「中動態」を紹介しています。この本のメインターゲットはケアが必要な人々と彼らに関わる全ての人々であり、最終的なメッセージも明確です。

好奇心に任せて読んでみた、ただの野次馬ではありますが、そんなぼくでも目からうろこを何度も落とし感嘆しました。ではどんな本かをまずはまとめていきます。

 

 ***

 

この世には二つの態が存在しています。ひとつは能動態、もう一つは受動態です。行為の方向がどちらを向いているかによって、「する/される」の区別をします。どちらかといえば英語の授業でよく聞く文法構造だと思います。

この文法構造の影響力はめっぽう強く、ぼくらは無意識に「受動か能動か」で物事を見てしまいます。しかし、たった二種類ですべてを分類しつくすことは不可能です。この分類方法にも抜け漏れが存在します。

例えばカツアゲはどうでしょう。この行為にはお金を渡す人と渡される人が存在しますが、ではここで何らかの形で脅されたことによってお金を渡した人が、果たして「能動的」と言えるのでしょうか…。

依存症にも似たような問題の構造が存在します。お酒やドラッグ、ギャンブルがないと生きることができないような人々には、家庭環境にひずみがある確率が高いという研究結果が出てきています。はたしてその背景を知ったうえで、それでも彼らは「能動的」に依存への道を歩んだと言えるのでしょうか…。

ある行為が「能動的」だとみなされた場合、多くの人はその行為を行った人に責任があると考えます。「自発的に」行動したのだから責任はその人が負うことになります。嫌ならお金をあげなきゃいいのに、渡したのならそれは「自己責任」だし自分で何とかしてほしい。依存症なんて辛いだけなんだから努力すればいいのに、やめないまま他人に頼るのは「無責任」だ。この「行動したのなら自己責任だ」論は日本でよく聞く主張です。

この本は、歴史の中に埋もれてしまっていた「中動態」を掘り起こすことからこの論に疑問を呈します。

 

かつて、態は「能動態/中動態」の二つに分かれていました。する/されるで動詞を区別する受動態が出てきたのはだいぶ最近のことだそうです。

「能動態/中動態」は、主語が過程の外にあるか中にあるかで分けられています。例えば「与える」という動詞は、「ぼくは、彼にバースデーケーキを与えた」という文にあるように主語である「ぼく」の外側で出来事が起きています。一方「できあがる」という動詞では、「バースデーケーキができあがった」という文にあるように主語である「バースデーケーキ」が「できあがる」という過程の内側に存在します。能動/受動の区分けの前はこのように区別されていたそうです。

 

この中動態という古くて新しい文法事項をヒントに考えてみると、自分が何かの「行為」に至るまでのプロセスがどのようになっているかを理解できます。ぼくはこれまで、自分が為す行為は「外部からの刺激」をうけとり、それからぼくのなかで感情が「生まれていた」という風に考えていました。

しかし、スピノザ哲学と中動態を学んだ筆者はこのプロセスをもっと正確に表現してくれました。ぼくらは自分の外側の世界からあらゆる刺激を受け取ります。その刺激を受け取ったのちに、自分の中にある感情が様々な方向に向かって舵を切ります。つまり、感情に自閉的で内向的な変化をもたらすのです。

例えば、知らない人からいきなりビンタされたとします。これが外界からの影響です。いきなり知らない人から殴られていい気分になる人は少ないでしょう。おそらく大半の人は嫌な感情を抱くはずです。しかし、そこで感情がどう舵を切るかはその人次第ということです。カッときて怒鳴る人もいれば、怖くてそのまま無視する人もいるでしょう。ここで起きているプロセスはラテン語でafficiturという中動態で描かれた動詞で、「外的な要因をもとに自閉的、内向的な感情の変化を起こす」という意味だそうです。確かにこの動詞も「自分の感情」という主語が変化する過程にありますね。

 

これを踏まえたうえで、彼は現世で通用してある「能動態/受動態」という分類方法をアップグレードしようとします。これまで「する/される」で分類されてきましたが、「行為」の際にその分類方法はうまくいかなくなるのは先程「カツアゲ」や「依存症」で述べた通りです。

彼は、「その個体の本質を十分に表現しているか」でこれらを分類すべきと主張します。能動態は、例えば自己の信念だったり性(さが)であったりを曲げることなく行動できたときのことを示します。外界からの刺激が発端になったにも拘らず、自己の本質を曲げずに「自分が自分を変える」という中動態のアプローチがあったからこそ、このプロセスは「能動的である」と言えます。

受動態は逆に、外界からの刺激に大きく影響されているなかで行動したときのことを示します。外界からの圧力や期待によって、自分の本質に近い行動ができなかったときを「受動的である」という風に言います。「怒り」にかられて人を殴打してしまった際にも、これは「その人を怒りの状態へと追いやった外部の原因」による受動的なものという風に言えます。

 

世の中に完ぺきなものというものは少なく、この二種類も例外ではありません。「完全に能動的/受動的」な判断というものは存在しません。例えば「怒りに任せて人を殴打する」という例をとってみても、いくら怒りという外部要因があったとはいえ、「こいつを殴りたい」という本質が存在することは否定できません。また、まったく外部の影響を受けずに行動を起こすこともありえません。

では、この分類はどのように働くのか。筆者は「外部原因の割合」を重要視しています。何か行動を起こす際に「外部原因が心に占める割合」が大きければ受動的、小さければ能動的と解き、それぞれの状態を「強制/自由」と呼んでいます。自己の本性に近いところで行動できる状態を「自由」、それとは逆に外部の要因に縛られている状態を「強制」と定義し、我々人類は自由になるために「自身の思考プロセス」はどうなっているのかをしっかりまなざしていかねばならないと締めています。

 

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感想としては、めちゃくちゃ難しかったです…。

出てくる言葉が専門的なわけでも(決して平易な言葉ではありませんでしたが)、文章構造が読みにくかったわけでもありません。一文一文はスラスラと読める本でした。

しかし、こういう「異世界モノ」はまずは自身がいる世界を抜け出し、そこにかかれてある世界に没頭しなければいけません。この本で描かれていた「中動態の存在する世界」は、ぼくらが住む「能動態/中動態」の世界とは明らかに異世界の話でした。出てくる言葉は慣れ親しんでいるものなのに単語の意味や使われ方がことごとく現世のものとずれているため、筆者の主張に近づけないまま読みきってしまったという感覚がずっと残っています。

きっとこの本を読み切ったいまも、ぼくは「能動態/受動態」の区分けから逃れられていません。中動態の存在する異世界をオーバーラップできると思っていたんですけどね…。残念。

また二、三年したあとで読んでみたいです。

 

ではでは