後藤を持ちながら

後藤を持ちながら

吹奏楽から仮面ライダーまで

悲愴的

こんにちは、トサカです。

 

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悲愴。

 

チャイコフスキーが六番目に作った交響曲であり、彼の遺作でもあります。彼の遺した名曲は今もなお、聴衆である我々の心を揺さぶります。

今日は、揺さぶってしまったがために起きた悲しい事件から話します。

 

この曲の珍しいところの一つに、「緩」の楽章が最終章になっています。重く苦しく、そして悲しいメロディが最初の弦楽から終盤まで続きます。張り詰めた緊張の糸は最後まで切れることなく伸びていくところにこの曲の妙があります。

この直前の第三楽章はうってかわって勇ましく、力強い行進曲であります。そう、最後に大喝采を送りたくなるような。

 

この曲が起こした悲劇、それは「第三楽章で拍手をして盛り上がってしまうこと」です。昔ツイッターで聞いた演奏会の感想で「悲愴の第三楽章で拍手が起こってしまった…」というものがありました。確かに素晴らしい演奏で、拍手を送りたくなるような勇ましい演奏だったそうです。

しかし、そこで一部の客が拍手を送ってしまったことに、少なくない人たちが気分を害したそうです。明らかに拍手をしている人を探すためにあたりを見回していた人、人差し指に手を当て静かにしてほしそうにする人、その人自身も緊張感がそこで切れてしまい、第四楽章を集中して聴けなかったそうです。

 

最初聞いた時は「いかにもありそうな事態だ~ウケる~」とか思いながら聞いていましたが、よく考えてみると「すぐに答えを出せない類のジレンマ」がここにあることに気づきました。演奏に対する「敷居が高く」なってしまうのです。

好きな曲はともかく、演奏会の曲を全て予習してくるには体力が必要です。どこが盛り上がって、どこでしんみりして、どこを聴かせたいのか。そりゃあもちろん理解を深めていたほうが楽しめるのはわかりますが、まとまった時間を音楽に割けるような生活を送ることができる人というのはおそらくだいぶ少ないと思います。そんな人たちにとっては20分の曲を聴くことだってだいぶ集中力を削られる行為だと思います。

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何にも予習せずに演奏会に行くこと。これもまた楽しいことであるとぼくは思います。予想もしなかった名曲に出会い、普段は見過ごしていた名旋律に耳を傾けられる。そんな瞬間に出会えることが一つの楽しみであります。

そこを踏まえると、悲愴が第四楽章があんなにも悲しみに満ちた曲であることを予習してこなかった人を単純に責める気にはなれません。多様性とは我慢強さによって形成されるという発言を耳にしますが、こういった飛び出してしまったタイプの拍手の話を聞くたびに、この音楽に浸りたい気持ちと敷居を高くしてしまいたくないという気持ちがせめぎあっているのを感じます。何度も演奏会に行くうちに、こういったことにも寛容になれてきた気がします。

 

ただし、わざとフライングでブラボーを言うヤツは万死に値する。奥歯に物が挟まったまま余生を過ごしやがれ。

 

ではでは。