後藤を持ちながら

後藤を持ちながら

吹奏楽から仮面ライダーまで

死にゆく

こんにちは、トサカです。

 

先週の仮面ライダージオウで、長くはもたない息子がいる父親が、怪人にさせられていました。彼は息子と同じ位の身長の人間を襲い、植物人間状態にする事で心臓のドナーを見つけようとしていました。最後は主人公が機転をきかせたおかげで彼の息子は救われたのですが、僕にはこの話ですごく印象に残っているセリフがあります。

父親が怪物から少しだけ「人間の姿」に戻った時のシーンで、主人公たちが人々を襲うのをやめさせようと説得しているという状況です。今は父親であるあなたが息子のそばにいてあげなければならないと強く言い放つ医者のライダー、仮面ライダーエグゼイド。怪物を止めてその力を受け継がなければならない仮面ライダージオウ。そんな彼らに、父親は叫びます。

「息子が死んでいくのを黙ってみてろと言うのか」

そう言って彼は再びその姿を怪物に変え、街へと消えて行くのです…。

 

幸福なことに、今のぼくには「死んでいく」親しい人はいません。そりゃあ長い目で見れば誰しも「死んでいく」人々ではありますが、そんなことずっと考えながら生きてたら疲れちゃいますよね。とりあえず今のところは、この問題はそこまで喫緊に迫ったような問題ではありません。でも、余裕がある今だからこそ、少しこれについて考えてみようと思います。

 

「息子を助けるために怪物にされてしまう」ことはまぁ今の日本ではないでしょう。ぼくは街中で怪人も怪獣も、そしてそれを打ち砕くためのヒーローも見たことはありません。

しかし、彼と同じような状況に陥る可能性は十分にあります。

例えば、医学的な根拠は薄弱で、かつ特定の個人または団体に莫大な金を巻き上げられるような「医療」行為があったとします。あるのは「絶対治ります」という担当者の言葉のみ。普通ならまず疑ってかかるでしょう。でも、これが大事な人が現代医療では治すことができないと診断され、現代に絶望してしまった人なら?

 

以前とある有名人が大事な人の治療を「医療」に任せたことに「お怒り」していた人たちがいました。かつてはぼくも「ちょっとなぁ」なんてことを思っていましたが、今はその気持ちがすこしだけ理解できるようになりました。

日々「死んでいく」大事な人の様子を見て、どうにもならないことだとどこかで分かっていはいるのです。しかし、その事実を受け入れるというのは想像を絶する痛みでありましょう。藁にだってすがりたい人々なのです。そういった人たちの受け皿として、「医療」はあまりにもよくできているのでしょう。「治らないとされていたものを治す」という現代医学に不信感を抱いていた人々に贈るアンチテーゼとして、この「医療」はすがる人が後を絶たないほどの魅力を持つものであるのです。

 

恐らく自分は割と用心深いので、同じ状況に立たされた時にぼくは「怪人」の道を選ぶことも、「医療」に頼ることもしないでしょう。しかし…、ではぼくは何にすがればいいのか。大事な人が「死んでいく」状態の時にぼくはなにができるのか。この辺は、これからもう少し大人にならないとわからないことだと思います。(先に自分が死にゆく状態になっちゃったりして笑。)とりあえず自分が窮地に立たされた時に何にすがるのか、これからの人生でこの疑問に決着を付けられたらいいなと思います。今のところ仮面ライダーかな。

 

ではでは