後藤を持ちながら

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吹奏楽から仮面ライダーまで

道徳をどう説くよ? ~周りを見てしまう理由~

こんにちは、トサカです。

 

道徳が教科になるらしいですね。

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「道徳としてあるべき姿を教えるのではなく、どのように行動すればいいかを考える」教育をしていきたいという風に書かれています。この考えた形跡を評価し、点数として考えるそうです。

ただし、このやり方には批判もあります。

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昨今問題としてよく取り上げられる「教員の忙しさ」。この忙しさを考慮に入れると、新しく導入された「ともに考える授業」としての道徳はいたずらに時間を取るためあまり得策ではない、とここでは主張されます。なるほど確かに「考える力」を高めたいだけならば、もっと簡単なテーマでやるべきだとぼくも考えますが、まぁ今回はその話題はこれくらいにして、ぼくはこの記事の最後の部分に着目しました。

 宗教教育がない日本でどう道徳を教育するのか? 19世紀、留学先の師の問いに絶句した新渡戸稲造は、米国人の妻とも対話して考え続け、「武士道」を著しました。

 今回の取材でこれを知り、ハッとしました。かつて旅先でムスリムの人に「我々は神が見ているから悪事はしない。無宗教の君はどうだ?」と聞かれ、「善悪とは何だ?」と眠れないほど考えたのを思い出し、新渡戸に親近感を抱きました。

そもそも、道徳がなぜあるのか。なにを「道徳」だと考えているのか。なにか「信じるもの」がある人々には、その教義の中に日々の行動の指針となる「規範」が存在します。では今の日本でその「規範」の代わりとなるものは何か?

ぼくは「世間」だと考えます。

当然何かの宗教を信じていようがいなかろうが、組織が変われば個人の立ち回りはがらりと変わります。ぼくだって家庭の中での自分と職場の中での自分は少しその振る舞いが違います。これはどんな人だってそうでしょう。しかし、個人個人の中での「規範」の形作られ方は変わってきます。

何かを信じている人にとっては、まず「なにが規範なのか」という一つの答えが提示されます。それは旧約聖書であったり、コーランであったりと様々ですが、なにか決まった教義が定まっており、そこから応用させて個々人の中の倫理観が形成されていきます。

では、無宗教の人々にとって道徳はどのようにして与えられるのか。これは「その人がおかれた環境」からなんとなく学んでいくしかないと考えています。家庭にしろ学校にしろなんらかの活動にしろ、そこには「独自のルールや生き方」が存在します。どういった人間であるべきかや悪いことに関する基準は、周りの環境に大きく影響されています。

もちろんここでの規範は明文化されていません。たまに家訓を掲げている家はあるでしょう(ぼくが中学生だったころ、家訓のある友達が一人いた)が、そうそうたくさんはないはずです。そういった環境で育つぼくたちは、物事の規範を「周りを見て」体に染み込ませるしかないのです。これが、ぼくらが「世間」をみて物事を判断する理由なんじゃないかと最近は考えています。

 

確かに現状の日本では、正しいとされる規範が特に存在しません。もちろんそんなものは世界中のどこにも存在しませんが、国教のない日本には形式上のものすら存在しないのです。そういった環境の中で「道徳をテスト項目にする」となると、よほどうまくやらない限り余計に周りを見て答えを合わせるという、本来掲げていた目的とは違った方向に流れてしまいそうです。どうなるか、今後も注目していきたいです。

 

ではでは。