国語の先生の話
私は毎日 棺に入る
見知らぬ人と一緒に
私はあわただしく釘をうつ
自分の棺に
そうして 都会の方へ
生埋めにされに行く
***
こんにちは、トサカです。
昨日の通勤中、ふとこの詩が頭に浮かびました。
高校の時の国語の教材として、先生が教えてくれた詩だったことをほどなく思い出しました。
この先生のことはよく覚えています。
高校一年生の時の国語の先生でした。
彼女はとにかく「面白い作品」に熱意を傾けるのが好きで、考察に値する作品があったら授業そっちのけでその解説ばかりする先生でした。
例えば、崖の上のポニョ。
「あれな、かわいらしい外見しとるけどよくみるとてーげ怖い話やとよ」
と、ポニョに畏怖を覚えた理由をつらつらと話し、結局二時間くらいポニョで授業をつぶしてしまうという方でした。(気になる方は「ポニョ 考察」で調べてみてください)
他にも、「自分ら15歳を迎えたんやな、おめでとう!」といって好きなR-15の映画を勧めてきたりもしました。
特に覚えてるのは「ミスト」と「ブルーバレンタイン」ですね…。
あらすじを聞くだけでどっと疲れました。
興味は惹かれるのですが、映画でのエログロは苦手なので観てません。いつかこの手の映画を観られるようになる日は来るのだろうか…。
***
どんな流れでこの詩が紹介されたか
この詩によって自分たちに何を学んでほしかったのか
そんなことは忘れてしまいました。しかし、この詩を取り扱った時の「授業の方法」はよく覚えています。
題名が隠された状況でこの詩が書かれたプリントが配られました。
プリントを配り終えて間髪を入れず、先生が一言。
「この詩の題名をあててみてください」
自分たちは必死に考えました。
棺に入る?自分から死ににいくのか?
見知らぬ人となぜ一緒に死ななきゃいけない。
一人で死ぬわけではないのか。
そして都会に行く?
しかも生埋めに…?どういうこと?
自分はその詩のタイトルを、そして詩で描かれる情景を全く想像できませんでした。
(勘のいい方は冒頭の時点で察することができたかもしれませんね。)
どんどんクラスの同級生が自分の考えを出していきます。
先生のヒントも相まって、だんだん正答に近づいていきます。
そして、割と早い段階で答えが出ました。
「地下鉄!」
タイトルを聞いた瞬間、自分が頭の中に思い浮かべていた意味不明な情景は消え、一瞬にして満員電車に押しつぶされる人の生気のない顔の群れが鮮やかに浮かび上がってきました。
そうか、これが「詩」なのか。
たった一言、タイトルがわかるだけで想像する世界が変わる。
高校生の自分にとって、かなり印象的な出来事だったのを覚えてます。
まさに昨日は、満員電車の地下鉄に揺られ、クールビズに移行しきっていない蒸し暑い車内で死んだような顔をしながら、国語の先生のことを思い出していました。
ではでは。
37:04
穴が開く という言葉
こんにちは、トサカです。
「胸に穴が開く」という比喩が好きです。
精神世界と穴。
全く別のものを表しているのに、言葉の力によって二者は美しいつながりを得るのです。この関係性がたまりません。
自分は「複数の段階で共通性がある」比喩が好きです。
その点、この「胸に穴が開く」は頭一つ抜けた比喩だと考えます。
胸に穴が開いたような
-心が喪失感 で占められるさま
-虚しいような心境のこと
自分の精神的な何かを失ってしまった心境を表すのに、金やら愛やらではなく、穴という例えを使うそのセンス。
最初に誰が言い始めたかはわかりませんが、惚れ惚れします。
この言葉が喪失感を示すのにあまりに適切すぎて、悲しいことがあった時、いつもは見えないはずの心が、スコップか何かでえぐられてしまうのを想像してしまいます。
学校で物を隠されたとき、お気に入りのものが壊れたとき、他人から期待をされなくなったとき。
そんなとき、自分の心というふかふかの土にスコップが突き立てられ、一気に土を持っていかれてしまうイメージをしてしまいます。
これが「ぽっかりと開いた穴」と書くと、自分の中で全く違うイメージが思い起こされます。
ぽっかりという言葉の持つかわいらしさから、どうしてもクッキーの型のようなものでくりぬかれるという想像をしてしまいます。
悲しいはずなのにどこか抜けたような、何かおいしいものが出来上がるような予感がします。
自分が抱く悲しみのイメージとはちょっと違うけど、悲しい気持ちと楽に向き合いたいときはこういう言葉を使うのもいいですね。
***
この比喩では、問題だけでなく解決策まで見事に精神世界とリンクしています。
基本的に、掘り起こされた心は元に戻ることはありません。
心を構成していた土はその辺に捨てられたり、持って帰られたりします。
ぼこぼこになってしまった土壌は、歩くことさえ一苦労です。
でも、完全に元には戻らなくても、その穴を埋めることならできます。
辛いことによって穴をあけてしまっても、日々の生活をすごしているうちに土は自然と集まってきます。
自分の土地から引っ張ってきたものもあるだろうし、他の人からもらえたものもあるでしょう。
どこの土かもわからないものをまぜこぜにして、心は平坦にならされていきます。
問題の発生(穴が開く)から回復の仕方(穴を埋める)までの経緯がそのまま心の状態にも当てはまる。
ここにこの比喩の素晴らしさがあると思います。
***
たまに、ごくまれに、オリンピックや日暮警部のこち亀出演よりもまれですが、楽観主義の自分の精神世界に隕石が降ってくることがあります。
どでかい穴が開きます。クレーターレベルの穴ですね。
こんなのがいきなり現れてさぁ大変。急いで復旧作業に当たります。
しかし、焼け石に水。いくら底の見えない穴に土を入れたところで、埋まる気配が見えません。(星新一のショートショートにこんなのありましたね)
そんなときどうしているか。実際にクレーターがある街を見てみましょう。
地獄の門と呼ばれる「燃え続けているクレーター」。
観光客も多く訪れているそうです。
埋めることができないんなら、この穴とともに生き、いっそこれを活かしてしまおう。という発想でしょう。
開いてしまったクレーターをとともに生きる。
時たまこれを糧にして、現状を切り開く。
これも一緒ですね。
抱えきれない喪失感と共に生き、それによって強くなる。
精神世界の状態と穴は、言葉によって様々な共通点が見出されます。
その関係性が実に美しい。
ではでは
51:51
原典と改定
こんにちは、トサカです。
昨日行ってきた、Osaka Shion Wind Orchestraの演奏会で一番印象に残った曲、「ドラゴンの年 2017年版」について話します。
ミニマルな原典
この「ドラゴンの年」は吹奏楽をある程度たしなむ人なら一回は聴いたことがある作品だと思います。
この曲はもともと金管のみで構成されたブラスバンドのための曲だったのを、吹奏楽用に編曲しなおした曲です。
当時のイギリス吹奏楽はかなり小編成で、軍楽隊の伝統に基づいていました。
ドラゴンの年は、このイギリス吹奏楽の基準に合わせて作曲されたため、最低限の音で構成されていました。
このシンプルさが、自分は好きでした。
この曲は、2017年に改訂版が出されます。
委嘱依頼したのはシエナ・ウインド・オーケストラ。
初めてこの曲を聴いたのはこのYouTubeだったかな。
一楽章は頭抱えながら聴いたのを覚えています…。
とにかくびっくりした。なんかいろいろと増えている。
原作のミニマル感が好きだった自分にとって、この曲の変化は驚くべきものでした。
言うなれば、「素朴で可愛かった子が大学デビューしてしまい、無理に茶髪にしている」ように感じられたわけです。
でも、昨日本人の振る指揮でこの曲を聴いて、認識を改めました。
改定されたところ
この曲で大きく改定されたのは、以下の点です。
- 現在の吹奏楽のスタイルに合わせた編成になるよう、打楽器、低音木管楽器の増強
- 木管楽器にそぐわないアーティキュレーションを改定
- 楽器の追加、廃止
自分が認識を改めたのは、主に1の部分です。
今回、自分は打楽器がよく見える席から演奏会に臨みました。
ティンパニ、スネア、テナードラム(トム)の3人のアンサンブルが特にしっかり見える席でした。
先程面食らったと感想を述べた一楽章の打楽器アンサンブル、プロの演奏を近くで聴くと本当に素晴らしいものだということがわかりました。
叩き方はそこまで変わっていない(ように見える)のに、アクセントとそれ以外の音の違いが明確に区別されていました。それも一人ではなく全員が。
そう。全員がアクセント、打楽器のパッセージのつながり、テンポ感の意識を共有していたおかげでこれほどすごい演奏ができたのだと感じました。
そして、今回何よりも絶妙だと唸ったのが打楽器内でのバランスです。
これまで自分が違和感を感じていた理由の一つに、どうも音量バランスが取れていないことがわかりました。
例えば、最初のテナードラムはあくまでもスネアを立てるためのものです。
どうしてもそこが対等になってしまう演奏が多く、違和感を感じていました。
昨日の演奏は、作曲者本人がかなり細かくバランス調整を行なっていたことがわかる演奏でした。
そしてそれにきっちり応えられる奏者によって、名演が産まれたのです。
本当にすごかった…。(恍惚)
いやー本心からお勧めできる、行く価値のある演奏会でした。
そんな演奏会に行って感化され、昨日突発的にやっちゃったこともブログにしたのでそちらも是非。
ではでは
ShionがShionであるために
こんにちは、トサカです。
24/58
今回は、まずはこの数字が何かについて書いていこうと思います。
24人
今日、Osaka Shion Wind Orchestraの演奏会に行ってきました。
まぁすごかった。
吹奏楽界を語るうえで欠かせない作曲家の一人であるフィリップ・スパークを指揮に迎え、彼の曲だけで構成された演奏会を行っていました。
曲を書いた本人の解釈をバンドにきちんと伝えられたとき、その曲が本来持つ輝きを手に入れる。
そんな出来事を体験させてくれた、素晴らしい演奏会でした。
この時の感想はまた後ほど。
今回自分が書きたいのは、このバンドの現状についてです。
開演前、パンフレットをパラパラ読んでいると、こんなページがありました。
今回の出演者リストですね。
エキストラがすごく多い…。
※印が名前の前にある人が客演、つまりエキストラですね。
数えてみたところ、今日の奏者は58人中24人が外部からの客演だったそうです。
団体の4割がエキストラ…。
もし自分の団体が講だったらと思うと怖すぎて考えたくもない。
現在は最低限の人数で、さらに団員たちに払う給与も大幅に削減して活動を続けているようです。
しかし、いくら活動規模を縮小しても、必要となる金額は2億8千万円以上だそうです。
また、大きな収入源である演奏会も、リハーサル、練習日などを考慮すると年150回ほどしか開催できません。
一回の演奏会での収入はおよそ80万円、もし頑張って年175回ペースで演奏会を開いても1憶4千万円。
活動を行うたびに、火の車に油を注ぐ形となっています。
シオンは財政的に厳しいとは聞いていましたが、ここまで問題が深刻化しているとは思ってもいませんでした。
吹奏楽という文化
現在、日本は吹奏楽大国です。
高度経済成長期、学校は他のどんな公共施設よりも多く金をかけることができた時代です。
ピアノもあった。遊具もあった。当時の最先端が揃っていた。
そんな時代、各学校に揃えることができた資源の一つに、「管楽器」があります。
軍のための音楽という印象がだんだんと薄まり、吹奏楽が学校教育の一環として広まり始めた時代と、高度経済成長が上手いこと重なったおかげで、「吹奏楽部」が爆発的に日本中に広まりました。
その影響もあって、現在多くの日本人が「吹奏楽」という音楽形態に慣れ親しんでいます。
学校だけでも約14300の団体が存在するそうです。一般バンドも合わせると120万人もの人が吹奏楽に関連した人生を送っているそうです。
これだけ吹奏楽文化が芽吹いているので、世界各国に存在する吹奏楽関係者の目も、この小さな島国に向けられます。
今回の演奏会も、これの延長線上にあるものだと思います。
イギリスに活動範囲を置いていたスパーク氏が、その目を吹奏楽が盛んな日本に向けました。
そして、両者が交流を紡いでいく上でさまざまな化学反応が起き、さまざまな名演、新曲が生まれていったのです。
まさにきょう、自分は名演が誕生する瞬間をこの目で、この耳で捉えました。
この演奏はデジタル化され、後世へ残されていくのです。
今日シンフォニーホールにいなかった人たちにも演奏を届けることができる。
吹奏楽界にとってかなり有益な演奏会でした。
この演奏は、これまでの作曲家スパークとその国との関係性、高いレベルで演奏できるバンドの存在、そして吹奏楽に興味を持つ観客の存在など、多くの要素がないと成り立ちませんでした。
しかし、日本にはそれがある。
日本は、吹奏楽という世界的な文化を発展させることができる土壌を持った国なのです。
そして、その土壌が今まさに枯れようとしている現状を、自分は今日目の当たりにしました。
***
しかし、自分にできることは何なのか。いざ考えてみると難しい。
どんなにシオンの演奏会に行っても根源的な資金不足の解決にはならない。
でもここでシオンがなくなると、吹奏楽界における大きな損失となってしまう…。
自分は・・・無力なのか・・・。
ん?
こ、これは・・・!
これだっ!!!!
というわけで、Shion プレミアム応援団員になりました。
年会費3000円、初回費1000円です。
社会人になってお金の使い方が格段と広がり、自分が本当に使いたいことに思う存分使えるようになったのは本当にうれしいですね。
もらっている給料を通帳に入れているだけでは大した価値は生み出せません。
では、今自分が貯蓄して何かすごいことを行おうと考えているかというと、とくにそんなこともありません。
それだったら、より大きな価値を生み出せるところに投資を行うべきだと考え、応援団員になりました。
自分の小さな小さな支援が、第一級の吹奏楽文化の肥やしになることを祈っています。
ではでは
ピアニッシモ
こんにちは、トサカです。
誰かに教えてもらった譜読みの方法がいろんなところで応用効きそうなので、今日はそれについて書いていきたいと思います。
***
自分は、吹奏楽部で打楽器を演奏していました。
打楽器ではたくさんの楽器に触れることができるのが大きな魅力です。今でこそ自分が好きな楽器であるシンバルを中心に叩いているのですが、高校生の時はもっと幅広く色々な楽器を練習していました。
ただ、自分はピアノ経験がないため、譜読みにはだいぶ苦戦していました(今もしてますが)。
鍵盤楽器やティンパニを叩くとなった時に、音階がさっと読めない。リズムは何とか叩けるんだけど、メロディをどうたたけばいいのか…。
どういったことに注意をして楽譜を読めばいいのか。そもそも読むとは何なのか。悩んでいた時期がありました。
譜読みに関する教えについていろいろと調べていく中で、こんな話に出会いました。
楽譜をもらった時には、まずはすべてピアニッシモで歌いなさい。
本当に歌いたいところは、気づかぬうちに心を込めてるから。
誰が言ったかとか、どんな媒体で読んだかとかは一切覚えていないのですが、この言葉だけは今でも強く印象に残っています。
この言葉に出会って、技術的なことは何も変わりませんしたが、譜読みするときの姿勢は変わりました。簡単なメロディを小さく、なるべく平坦に叩いてみて、「我慢できない。もっと情感込めて叩きたい!」と思ったところを探すようになりました。
現在はわりと単音の楽器(シンバル、タンバリンなど)を中心にしていたこともあり、わざわざ上記のような音取りはしていないのですが、自分は管楽器奏者の人たちがどんなふうにメロディを吹いているのかを観察するようになりました。
自分がいるバンドではどの箇所で「心を込めて」いるのか。観察するとなんとなくわかってくるようになってきます。
多くの人が「心を込めたがる」箇所のシンバルは少し華やかに叩いてみたりしていました。それだけで曲に花を持たせることができます。
***
んで、この譜読みの方法って、ブログのテーマを探す時の方法とすごく似ているんですよね。
自分が何かを読む、聴く、体験するときは、なるべく自分の解釈やら感性やらを抑えるようにしています。
これらの余計なものを限りなく’ピアニッシモ’に近づけ、体験をなるべくそのままの形、相手の意図したとおりの解釈で受け取ろうとするのです。
しかし、入力することに集中していると、そこから感想、反発、疑問、違和感が芽生えます。
入力された体験が自分を介するときに、そのまま素通りすることはほとんどないと思います。どこかで必ず引っかかる。その引っ掛かりが重要なのです。
自分の興味関心はどこにあるのか、どの箇所を’ピアニッシモ’で済ませられないのか。
この引っ掛かりを探り、文章の形に変えると、自然とブログのテーマは定まってきます。
①まずは自分の感性をピアニッシモにすること
②ピアニッシモで済ませたくない体験があれば、それを文章にすること
これが、現在の自分のブログのテーマの探し方です。
文章に困った際には意識してみてください。
ではでは