後藤を持ちながら

後藤を持ちながら

吹奏楽から仮面ライダーまで

12

こんにちは、トサカです。

 

12人の怒れる男」を観ました。面白かった。

映画は1957年製作。白と黒しか使われていない映画です。必要以上にもこもことしたスーツにガラス製の灰皿、そしてやたらと大きなタバコ。小道具や服、髪型のすべてが時代を感じさせます。しかし、その古っぽさが「話の筋の面白さはいつまでも古びない」という事実をより明確に浮き彫りにしていました。

 

父親を殺したとされる少年の裁判を6日にわたって聴き続けた12人の陪審員たちが、一つの部屋に集められます。圧倒的に「少年に不利な」状況で幕が閉じられた裁判、これをもとに十二人の陪審員が、その少年の今後を決めることになります。

もし有罪の判決が下された場合、少年は即刻電気椅子送りになってしまいます。しかし、部屋に集まった陪審員が最初に行った多数決では、ほとんどの陪審員が少年のことを有罪であると考えていました。その中でたった一人、8番の男がその手を無罪のほうに挙げました。彼が「話し合おう」と口を開くことで、男たちの長い一日が幕を開けます…。

 

基本的に話の筋は単純で、事件を隅から隅まで検討することで有利な証拠を次々生み出していく「無罪派」が、これまでの裁判での意見に乗っかっていた「有罪派」をどんどん飲み込むというものです。「実力に大差なければより準備をした方が勝つ」という、ワールドトリガーのヒュースの言う通りです。ただ、しっかりと仕込まれた伏線や、キレる演技がやたらとうまい役者たちに引き込まれ、非常にエキサイトして観ることができました。

この話のキモは、「事件についてぼくら観客は何もわからない」というところです。映画の九割は男たちが蒸し暑い部屋の中で話をしているシーンなので、実際に「どのように事件が発生したのか」をぼくらは、劇中の陪審員と同様知ることができません。ぼくらが辛うじてわかるのは圧倒的に「有罪側」に有利だったとされる裁判の様子(それも陪審員の発言からまた聞きするだけ)のみです。ここからぼくたちは、登場人物と同様その夜に起きた事件の顛末を想像していかなければならないのですが、どんなところで意見を変えるのかを注目しながら見ていくのがすごく楽しかったです。

 

実は、ぼくはこの作品をもとにした「12人の優しい日本人」という話を先に観ていました。気高い主人公によって場の雰囲気がジワリと変わっていく骨太な本作と比べ、こちらはヒーローのいない、なーんとなく雰囲気に影響されて二転三転するコメディとして仕上がっています(脚本が三谷幸喜ですしね)。ぼくは日本人なので、どちらかと言えば「~日本人」の方が好きだったかな。

そんなこんなで、おすすめです。「12人の怒れる男」。いろいろな要素をそぎ落としてできた密室劇。好きな人にはたまらない映画だと思います。

 

ではでは。

 

 

 

12人の優しい日本人【HDリマスター版】 [DVD]

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視線はまるで

こんにちは、トサカです。

 

帰りがけに吉幾三の「おら東京さ行ぐだ」を歌いながら、体感したこともない田舎暮らしに思いを馳せていました。電気のない暮らしがそこまで珍しくない時代っていつ頃の話だろうか。大学時代はテレビもラジオもなく、車もそれほど走っていないところに住んでいたな。あのマンションの管理人さんは元気だろうか。そんな時、ある歌詞がふと気になり始めました。

レーザーディスクは何もヌだ?」

何者なのでしょうか。ぼくもこの曲を聴くまでその存在を認識していませんでした。(二回ほど見たことはあります)

 

世界の理が載ってあるWikipediaで調べてみると、レーザーディスクは「絵の出るレコード」というキャッチコピーのもと世に出されていったそうです。一番大きいものでおよそ30㎝、CDのようにきらきらとした面に光を当て、最大で二時間分の映像を流すことができるそうです。

ただ、レーザーディスクのプレイヤーの国内普及率がようやく10%を越えてからわずか四年後に、DVDが発売されました。安価で、コンパクトで、レンタルにも進んで参入したDVDを前に、高品質路線で進めていたレーザーディスクはなすすべもありませんでした。

 

ここでは、昨今のストリーミング配信が飛ぶ鳥を落とす勢いであることと似たようなことが起きていますね。ずばり数を抑えることができた媒体にいい風が吹くようになっています。

レーザーディスクは先述のレンタル禁止に加え、圧倒的に生産ラインが細かったそうです。録画の出来ないレーザーディスクが事業として成り立つためには技術の優位性はもちろんのこと、圧倒的に質のいいコンテンツを販売しなければ普及率を高められないと考えていたらしく、そこを埋めるため、主な販売元であったPioneerはたくさんの洋画をレーザーディスク化し、自社リスクのもとでコンテンツを販売していたそうです。しかし、あまりにも作品の種類が多いために供給が追い付かず、発売された月に廃盤となるような作品もあったそうです。

のちに出現したDVDはその圧倒的な物量とビデオと比較した時の高価さで、市場を圧倒しました。レーザーディスクは一度もトップに立つことなく、2007年に製作を中止されています。

 

新たな製品が世に出回った時、人間の行動はその製品に飛びつく速さによって五種類に分けられます。新しいものが好きなイノベーター、新しいものの中でいいものに対する嗅覚が鋭いアーリーアダプター、多数派であり、ここに火がつくと一気に市場が拡大するアーリー・レイトマジョリティ、保守的であまり自分の生活を変えたがらないラガードです。

ぼくの家族はわりと流行ものに疎く、保守的な生活を行っていました。ぼく自身もその地を強く引いていると感じることがたまにあります。映像媒体に関してもそのラガードさを発揮しており、ぼくが小さかった頃からずっと大事に大事にビデオデッキを使っていました。結局このデッキを買い替えるときにレーザーディスクという選択肢はありませんでした。

ここまでレーザーディスクについてちゃんと考えたのは、ひょっとすると人生で初めてかもしれません。でも、図書館であったりカラオケであったりとまだ使用できるところは存在しているらしいです。画質は当時の他の媒体と比べてかなりいいものらしいので、一回上映されてるところを観てみたいです。

 

ちなみに、ぼくは「レーザービーム」よりも「ねぇ」の方が好きです。テレビもねぇ。ラジオもねぇ。

 

ではでは。

ねぇ

ねぇ

 

 

参考

LD

http://sts.kahaku.go.jp/diversity/document/system/pdf/085.pdf

早起き好き

こんにちは、トサカです。

 

うちの部署は、なるべく残業時間を減らそうと躍起になっています。

どうしようもなく業務がかさんでいる時を除けば、すすんで上司から帰ります。ぼくのような呑気な独り暮らしとは違い、みんな家庭がありますからね。家の支度が忙しいのでしょう。

また、コアタイム制を最大限にまで使い、働く時間を一か月でバランスが取れるようにしています。例えば二時間居残って作業をしたら、次の日は少し遅めに出社したり、早々に切り上げることができます。割とこの辺を上手く使って、のらりくらりと働いている人が多い印象です。

 

仕事の方が蝶になり、花になり、もうどうにもとまらない状態のときは考える余裕すらないのですが、ひと段落ついて冷静に自分の状態を見つめなおすと驚くほど疲弊していることがわかります。

頭の中にある「思考を司る部分」にはうっすらと霧がかかり、身体の各部品を動かそうとするたびに数フレーム分の遅れが出ていることを実感できます。一年目である現在はたかだか15時間/月くらいなのでそこまで深刻なものではありませんが、この時間がかさんでくると結構致命的になってくることが予想されます。(月80時間超過労働してる人ってどうなってるんや…)

 

というわけで、ちょっと帰りが遅くなったらいつもより余分に寝て、次の日は少し遅めに出社するようにしていました。僕の周りのエンジニアには「遅く起きる生活は素晴らしい」と考える人が多い気がします。少しでも頭の状態をよくしてスムーズに業務を進められるそうです。しかし、この出勤方法を何度か体験すると、自分にとっては逆にこっちの方が辛いことに気づきました。

 

いつもより少し遅く起きる。これだけのことなのに会社に行くのがマジで辛くなる。起きる時間が遅くなればなるほど、会社に行くやる気も落ち込んでいきます。この時間に起きることができたのに、なぜ今から会社に行く支度をせにゃならんのか…

わりと早起きが苦にならない(そのかわり、夜更かしは死ぬほど苦になる)性格をしているため、朝起きる時間はきっちりと定めておいた方が楽であることに、ようやく仕事面で応用できました。

仕事をこなすことに必死で、ひたすら「他の人のやり方をまねる」のみの生活になっていました。最近はようやく、本当にようやく余裕を持った働きっぷりができるようになったので、ひとまず借り物は置いといて自分のやりやすいリズムとはどのようなものかを見直し、仕事でもそのリズムを持ち込めるようにしたいです。せっかく生活の大半を費やすんですから、なるべく肩の力を抜いていきたいです。

 

ではでは

Let's 教祖!

こんにちは、トサカです。

 

avoirgoto.hatenablog.com

科学と宗教との差異、そして科学が手に届かないところに宗教がすっぽりとはまるのではないか、という話を以前しました。しかし!ぼくはそこで一か月足を止めてしまっていたのでした。どういった人たちが「信じる」のか。どのようにして宗教は発達してきたのか。う~ん難しい…と悩んでいたぼくに、書物は微笑みかけてくれるのでした。

「完全教祖マニュアル」という本です。

完全教祖マニュアル (ちくま新書)

完全教祖マニュアル (ちくま新書)

 

 

人から尊敬されたい。人をガンガン操りたい。でも、それを担うにはあまりにも自分は非力であることを自覚している凡人に、この本はたった一つの「救いの道」を与えています。

『教祖になれ。さすれば貴様の道は自ずと明るくなるであろう』

この本は、

・教義をより確固たるものにする思想編

・教えを多くの人に広めるノウハウを集めた実践編

の二章で、「如何に効率よく教祖になるか」を説いています。

 

本の語り口はかなり穏やかです。しかし、言葉遣いに反して内容はかなり過激で笑えます。

この本の「はじめに」の

本書を信じるのです。本書を信じなさい。本書を信じれば救われます———。 

 をはじめとして、宗教に関する真実をかなりジョークっぽい言い口で語られます。「仕事はおろか家族すら捨てる仏僧はニート以下の存在なのです。」「午前二時に日本人形がいきなり動きだしたって、それは科学で説明できないだけの現象なので恐れる必要はありません。」「あなたは皆の期待に応え、権威を振りかざすべきなのです。」「教団が安定してきたら、そろそろ甘い汁を吸いたくなる頃でしょう…。」ゲラゲラ笑いながら読めました。

また、性的な話も結構多く、予想以上に宗教と性的な話の相性の良さを感じました。例えば、これまでそういった行為をしたことのない男性は社会的に弱い立場に追いやられており、また割と見つかりやすいため宗教にかなり取り込みやすいそうです。うるせぇよ。

まぁあんまりここには書けない話も多かったので、気になった方は読んでみてください。

 

基本的にこの本は実用書なので、明確に「この本に書かれてある技術を使いたい」という人が存在します。この本がターゲットとしている層は「凡人凡俗だけど自己顕示欲の強い、本気で教祖になりたい人間」だそうです。ぼくは教祖になどなるつもりなく、ただただおもしろがるために読んだのですが、著者に言わせてみれば「そういった人間はごく少数」とのことです。

ただ、この本は10年前に発売されたものであります。この本の最後で「国教化を企てよう!」という(とんでもない)章があるのですが、この本が発売されて10年経ってもまだ国教となるような新興宗教は出てきていないので、まぁまだ真に「実践できた」人はいないのでしょう。まだぼくのような「面白半分」で読むというスタンスの人が多いのでしょう。

 

もちろんこの辺は筆者のジョークです。というより「面白おかしく、しかし要点は外さずに」宗教団体の成り立ちを説明するということがこの本のテーマです。面白く、わかりやすく「人はなぜ信じるか」「どうやって信者を増やすのか」を説明しております。非常にいい本だと思います。

 

というわけで、宗教団体に興味のある方、現世に存在する宗教に疑いの目を向けている方、教祖になってちやほやされたい方、ぜひ読んでみてください。名著です。

 

ではでは。

伝染るんです

こんにちは、トサカです。

 

昔むかし、本当にいつ頃のことかも覚えていないほどの昔に、とある「怒っていること」について書かれてある読み物を読みました。

たぶん新聞とかのようなお堅いものではなく、母親が借りてきたなんかの本の一節だと思います。ひょっとすると小説の登場人物の一人の意見かもしれないし、誰かのエッセイの一ページかもしれない。どんな人が話したことなのかは覚えていませんが、どんなことに怒っていたかはよく覚えています。

その人は、トイレットペーパーを三角折りする人に激しい憤りを感じていたのです。

 

その人曰く、「用を足した後の手でいちいち触るんじゃない」だの「清掃済みのサインであるはずなのに、一般人までしだしたら疑心暗鬼になって仕方がない。やめろ」だの「きれいにしたと思い込んでいる、ただの自己満足」だのとひどい言いようでした。

小さいながらもぼくは「ちっさい人間やなこいつ」とあきれました。基本的に人が怒っている時の言葉は、通常時よりも荒れています。半分おふざけ、半分本気で書かれてあるこの話もその例にもれず、面白おかしくするために意図的に激しい言葉を使っています。そして無意識のうちに、ぼくにも荒い言葉がうつってしまいました。

ちっちゃなことに怒っているその姿に、その登場人物(またはそのエッセイを書いている作家)と自分との近さを感じ、そのキャラがより立体的に、よりリアルに感じられます。そういった意味では、しょうもないことに怒るというエピソードを挟むことの巧みさを感じられるこの話は優れたものであるということが、いまならわかります。が、当時はそんなことは少しも考えず、ひたすら「心がちっちゃいなぁ」とバカにしてました。

 

ただ、このエピソードを読んでからというもの、ぼくは異常にトイレットペーパーを気にするようになってしまいました。三角になっていなかったら少しホッとし、三角になっていたら少しそこを手に取るのをためらってしまうような、そんな小学生になってしまいました。怒りを抱くほどではありませんが、少しだけ気にしてしまうのです。前までこんなことは気にならなかったのに…。

 

怒りというのは伝播しやすく、他の人が怒っているのをみると自分まで無性に嫌な気分がします。この本を読んだときはその文の上手さや扱っているもののしょうもなさがあったのでそこまででもなかったのですが、それでもその怒りに乗せられ、トイレットペーパーに対してかつてとは違った目線でしかみることができなくなってしまいました。

これが、怒りに身を任せたまま書かれた文章なら、そしてそのテーマが自分にとって大事なものであるなら、ぼくはその怒りにすぐ感化されてしまいます。その人の負の情熱が自分のところにまでうつってしまうのです。これまで抱いてこなかった怒りにいきなり感染してしまい、ひとしきり怒りの感情に支配された後に残るのは虚無のみです。本当に空っぽ。

最近はあまりにも生々しい「怒り」とはなるべく距離を取ろうとします。振り回されないように。自分の機嫌を自分でコントロールしていくためには、自衛も必要であることが身に染みてわかりました。

 

ではでは。