後藤を持ちながら

後藤を持ちながら

吹奏楽から仮面ライダーまで

伝染るんです

こんにちは、トサカです。

 

昔むかし、本当にいつ頃のことかも覚えていないほどの昔に、とある「怒っていること」について書かれてある読み物を読みました。

たぶん新聞とかのようなお堅いものではなく、母親が借りてきたなんかの本の一節だと思います。ひょっとすると小説の登場人物の一人の意見かもしれないし、誰かのエッセイの一ページかもしれない。どんな人が話したことなのかは覚えていませんが、どんなことに怒っていたかはよく覚えています。

その人は、トイレットペーパーを三角折りする人に激しい憤りを感じていたのです。

 

その人曰く、「用を足した後の手でいちいち触るんじゃない」だの「清掃済みのサインであるはずなのに、一般人までしだしたら疑心暗鬼になって仕方がない。やめろ」だの「きれいにしたと思い込んでいる、ただの自己満足」だのとひどい言いようでした。

小さいながらもぼくは「ちっさい人間やなこいつ」とあきれました。基本的に人が怒っている時の言葉は、通常時よりも荒れています。半分おふざけ、半分本気で書かれてあるこの話もその例にもれず、面白おかしくするために意図的に激しい言葉を使っています。そして無意識のうちに、ぼくにも荒い言葉がうつってしまいました。

ちっちゃなことに怒っているその姿に、その登場人物(またはそのエッセイを書いている作家)と自分との近さを感じ、そのキャラがより立体的に、よりリアルに感じられます。そういった意味では、しょうもないことに怒るというエピソードを挟むことの巧みさを感じられるこの話は優れたものであるということが、いまならわかります。が、当時はそんなことは少しも考えず、ひたすら「心がちっちゃいなぁ」とバカにしてました。

 

ただ、このエピソードを読んでからというもの、ぼくは異常にトイレットペーパーを気にするようになってしまいました。三角になっていなかったら少しホッとし、三角になっていたら少しそこを手に取るのをためらってしまうような、そんな小学生になってしまいました。怒りを抱くほどではありませんが、少しだけ気にしてしまうのです。前までこんなことは気にならなかったのに…。

 

怒りというのは伝播しやすく、他の人が怒っているのをみると自分まで無性に嫌な気分がします。この本を読んだときはその文の上手さや扱っているもののしょうもなさがあったのでそこまででもなかったのですが、それでもその怒りに乗せられ、トイレットペーパーに対してかつてとは違った目線でしかみることができなくなってしまいました。

これが、怒りに身を任せたまま書かれた文章なら、そしてそのテーマが自分にとって大事なものであるなら、ぼくはその怒りにすぐ感化されてしまいます。その人の負の情熱が自分のところにまでうつってしまうのです。これまで抱いてこなかった怒りにいきなり感染してしまい、ひとしきり怒りの感情に支配された後に残るのは虚無のみです。本当に空っぽ。

最近はあまりにも生々しい「怒り」とはなるべく距離を取ろうとします。振り回されないように。自分の機嫌を自分でコントロールしていくためには、自衛も必要であることが身に染みてわかりました。

 

ではでは。