村上ラジオ
こんにちは、トサカです。
昨日放送されていた、ハルキ・ムラカミさんのラジオを聴きました。
文体が静かな方なので、勝手に細めの声をしていると思い込んでいましたが、かなりどっしりとした、深い声だったことが印象深かったです。
あいさつはかなり丁寧で、一言一言を熟考しながらはなしていたのですが、自分の好きな音楽の話になると、まるで彼が「好奇心を持て余した少年」であると思わせるほど楽しそうに話し始めます。一気に饒舌になったのを聞いていると、こちらまで楽しくなっていきました。
途中で坂本美雨(坂本龍一と矢野顕子の娘。歌うますぎ)が視聴者のお便りを読み、それに村上春樹が答えるというコーナーがありました。
視聴者から多かった質問として、「自分が死んだときにかけてほしい曲は何か」が挙げられていました。なんと30通ほど来たそうです。
彼は、死ぬときは静かに死にたいと話しつつ、「好きな子に自分の好きな曲をつめこんだテープをあげる」ことのこっ恥ずかしさを語り、「自分が死ぬときまでそんな恥ずかしいことをしたくはないし、気まずい空気にさせたくない」と話していました。自分もCDに好きな曲を詰め込んで渡そうとしたことがある(未遂)ので、その恥ずかしさはよくわかります。あの時はたしか中学生でしたが、作る直前で正気に戻れてよかった。
自分が中学生だった時、つまり日本のロックが大好きでその深さにずぶずぶと沈んでいた時は、「自分が死んだときは『マキシマム・ザ・ホルモン』の『ぶっ生き返す!』をかけてほしいと思っていました。
でも、実際に自分が葬式に参列した時に、「死んだ本人よりも、その周りの人たちのために葬式は行われている」ことを強く認識しました。
普段は全くなじみのない文化や行事の作法を繰り返し行うことで、現在自分たちが置かれている状況が非日常であることを強く意識させます。
「知り合い」が横たわっていることが、お線香の匂いが、やけに豪勢な建造物に囲まれた写真がそこにはありました。このように非現実的な場面を積み重ねていくことで、「残された人たち」の認識を一歩ずつ前に進めていきます。
残された人たちの気持ちを先へ進ませるのためには、なるべく「日常性」があるものを排除しなければなりません。
それを考えると、「普段から聴く音楽を葬式で流す」ことは日常を思い起こしてしまい、あまりよくないのではないかと思えてきます。なので、ぼくも村上春樹と同じく葬式で自分の好きな曲をかけてもらうのはなるべく遠慮してほしいです。
しかしまぁ、この質問が30通も来てたのが驚きです。みんなそんなに彼の死に興味があるのかなぁ。なるべく長く生きて、いい文章をたくさん書いてほしいのになぁ。
ではでは
恐怖との付き合い方
こんにちは、トサカです。
昨日金曜ロードショーで「オデッセイ」を観ました。めっちゃ面白かった。
大まかなあらすじは「火星に取り残された男が、地球に帰る」という単純な話なのですが、これが本当に良くできている。
この話はフィクションだし、絶対にありえないシーン(火星には砂嵐は発生しない)もあります。しかし、宇宙に関する知識に明るくない自分にとっては、そんなささいなことが全く気にならないほど没入できました。圧倒的な説得力がそこにはありました。
第一級品の頭脳と肉体を持つ宇宙飛行士(宇宙滞在士?)が、火星で一人生き残るために自身の持つ資産を全て懸けて様々な困難に立ち向かいます。
火星という不毛な土地は、人が生存していくにはあまりにも過酷な環境で、何度も何度も「こんなの死ぬしかないじゃないか…。」と言ってしまいそうな場面が続きます。でも、彼は持ち前の知識と執念、そして周りの人たちのサポートによって乗り越えていきます。
結局この話では「奇跡」なんて起こりませんでした。登場人物全員が「彼を生きて地球に帰す」ことを目標に、実現可能な最善の手を打ち続けます。それぞれのバックボーンや考え方が違うために対立してしまうこともありました。でも根底に流れる想いは皆同じで、主人公を含めた全員が「今あるリソース」と「知識」から得られる最善手を打ち続けることで、最後につながったのだと思います。
この映画を観ていて、ぼくは先日起こっていた「タイの救出劇」を思い返していました。助ける側/助けられる側がそれぞれ最善手を打ち続けたことで、いい結果がもたらされるところがすごく似ています。
サッカーチームの子供たちがコーチとともに洞窟に入ったものの、豪雨の影響で外に出られなくなってしまったのです。
雨脚がどんどん強くなっていく中、タイの海軍や政府、そして全世界から集まったダイバーが知恵と力を結集して彼らを救うプランを考えていきます。
また、洞窟内では仏僧であるコーチが子供たちに瞑想を教え、パニックにならぬよう彼らを諭していたそうです。彼の教えがあったからこそ13人全員が生き残ることができた、という意見もたくさん見かけます。
マット・デイモンと13人のサッカーチーム。彼らに共通していたのは「死と孤独の距離が非常に近いこと」です。
どちらも救助が来ない、物資もない、非常にギリギリの状態だった。そんななか彼らを守ってくれたものは何だったのか。
オデッセイでは、彼を恐怖から守ったものは科学知識でした。
主人公であるマーク・ワトニーは「植物学者」の博士号を持っていました。その知識を生かして食料を増やすための「自家菜園」を火星に作り上げました。
映画とは真逆で、サッカーチームを恐怖から守ったものは宗教でした。
集団でパニックになりそうなところを、神の教えがギリギリで引き留めていました。
どちらもあらゆるものを奪われてしまった状況で、「自分の身体に染み付いた知識」によって救われています。それが科学か宗教かの違いなだけです。
科学と宗教はあまりかみ合わせがよくない、という風に言われる理由は、そのスタンスの違いにあると思います。科学は基本的に「疑う」姿勢で世の中を見ているのに対し、宗教は「信じる」姿勢で世の中を見ています。
でも、どちらも「人を救うためにある」のだと、映画を観再認識しました。
それと同時に、いま自分が死と孤独の恐怖に押しつぶされそうになったとき果たして何が救ってくれるのか。なんてことも考えていました。やっぱもうちょっと真面目に勉強しなきゃなぁ~。
ではでは
感想の流用
こんにちは、トサカです。
毎週日曜の朝は、テレビの前に座ってそのときが来るのを心待ちにしています。スーパーヒーロータイムです。
仮面ライダービルド、そして快盗戦隊ルパンレンジャーVS警察戦隊パトレンジャーの活躍を観終わってから、ぼくは残り少ない休日をどう過ごすか考え始めます。
テレビがない頃はケータイのワンセグで必死に電波を拾いながら観ていたので、何が起こっているかわからない時が往々にしてありました。
小さい画面だと戦闘が映えず、カクカクで誰が誰と戦っているか把握できません。また、いいせりふを言いそうな場面で電波がいきなりゼロになり、結局なんて言ったかわからずじまいの時もありました。
ケータイだけだとどんなふうに物語が展開しているのかがわからない…。そんなぼくの心強い味方がツイッターでした。
ツイッターを見ていると、いつ話が盛り上がっているのか、誰がどんなことを言ったのかがはっきりわかります。ケータイに電波が入りづらくなったらツイッターを見て、脳内で彼らの活躍を補完していました。こう改めて文章にすると辛いものがありますね。
そのときの名残で、ツイッターを見ながら特撮を観ることが習慣になっていました。
しかし最近、どうもこの「ながら観」がよくない影響を与えているような気がしてきました。
感想が出てこないのです。
ビルド、ルパパトは相変わらず面白いので、何にも考えずに観ているなんてことはありません。なのに、いざ感想を形にしてみようとすると、これが全く出てこないのです。それはなぜか?
自分が考えていたことを、すでにほかの人が「もっと上手な言葉で」呟いているからです。これ、ツイッターを観ながらなにかテレビの番組を観たことのある人なら多かれ少なかれ共感してくださるのではないでしょうか?
テレビを観終わってその興奮と熱がしばらく収まったころ、ようやく感想が言葉の形になって、身体の外へ出ていきそうになります。それなのにツイッターを見てみると、自分と同じことを感じた人がもっと魅力的な形でアウトプットしているという体験が何度もありました。
これが続いてしまうと、「外から借りた意見」をいつの間にか「自分の真の意見」とすげ替えてしまうのです。
自分も少しは考えていたけど、結局ほかの人の意見の方が「うまく言えてる」ので、それにただ乗りしてしまい、自分の感性を腐らせてしまっていました。無意識に人の意見を流用しそうになる自分がいたことに気づいたのが本当に最近です。でも、気付けて良かった。
ぼくはそこまで頭の回転が速くないほうなので、じっくり番組の感想を寝かせて、「自分の感想」を育ててあげたいなと思います。自分の感性は自分しか磨いてやれませんからね。
…と思ってたんですけど、今週スーパーヒーロータイムおやすみじゃん…。生き甲斐が…。
でも今週は映画があるし、そっちを観に行こう。
ではでは。
点す
こんにちは。
男には やらねばならぬ 時がある
トサカです。
パソコンと毎日にらめっこしながら、日銭を稼いでいます。
プログラマというと、座っている分体力を使わない職業だと考えていたのですが、実際に働いてみるとそんなことはありませんでした。頭の疲労がそのまま身体に影響を及ぼしているのを実感します。
また、ずっと同じ姿勢で作業していると、どうしても長時間身体の同じパーツに負担をかけることになってしまいます。ぼくは意識的に席を立って腰を回すことを習慣化しています。さらに、自身の癖で知らぬ間に左肩に力が入ってしまうことが多いので、作業に脂がのっている時ほど手を机から降ろし、リラックスするように心がけております。
ただ、どんなに身体のメンテナンスを丁寧にやっていても、「職業病」はやってきます。プログラマであるぼくの場合、その脅威はまず「目」に襲いかかってきました。
目の痙攣、かすみ、これが疲れ目というやつか…。若いのは気持ちだけ。身体は常に老いていき、ゆっくりとしかし着実に死へ向かっていきます。その第一歩を、「職業病という名の「死への一歩」を踏み出してしまった。さぁ大変だ。
早めの処置が一番ということで、さっそく帰り道にある個人経営の薬局に行って、目に効く何かを買いたいと店員に話を聞きました。店番をしていた物静かな店員が、「一刻を争うならこれがベストです」と目薬をおすすめし、その効能を丁寧に教えてくれました。
言葉の節々から感じる「はよこれを買え」という彼のオーラに気圧されたぼくはしぶしぶその目薬を買い、店を後にしました。
恥ずかしくて誰にも言ったことがなかったのですが、目薬がすごく嫌いでした。
目の近くに「自分の身体ではない何か」があることに耐えられず、これまでなるべく目薬を点す機会を遠ざけていました。目が痒くなったら自然放置に頼る。どうしても点さなければならない時はこっそり父にやってもらう。自らの手で異物を目に近づけるなんて、とてもじゃないけどできませんでした。
そんな習慣を持っていたぼくなので、生まれてこの方目薬を自分で点したことはもちろん、買ったこともありませんでした。買ってきたはいいものの、しばらくは目薬とぼくのにらみ合いが続いていました。しかし、ここで逃げたら男が廃る。とうとうぼくは目薬を手に取りました。
目薬の口を目に近づけたとき、心なしか息が荒くなるのを感じました。少しでも手元が狂えば、この口が目と衝突してしまう-二回ほど点すのを諦め、このまま寝てしまったほうが治るのではないかと考えたときもありました。
しかし、勇気を振り絞ってついに点しました。五回ほどニアミスしてしまいましたが、やり切りました。ついにやったのです。大人の階段を登ることができました。生まれて初めて自身の手で点したのです。やったー!
はじめの頃は勘で点していたため、目薬をどう動かせばうまく入るのかがさっぱりわからないまま何滴も無駄にしていました。
しかし、継続は力となります。ここ二、三日で目薬に対するスキルがぐんと上がり、たとえ一回目でミスしても「目薬をこう動かせば次は上手く入る」ということがわかるようになってきました。反復練習が実を結ぶことを実感しました。
そろそろ目がしょぼしょぼしてきたので、今日はこの辺で締めようと思います。目薬点して、さっさと床に就きます。
ではでは。
アイスを愛す ついでにダメな自分も
こんにちは、トサカです。
先日、ブックカバーに隠されて「忘れていた本の存在」について書きました。
今日はこの「忘れていた本」について書こうと思います。
タイトルは「問題解決大全」。人文学からコンピュータ、はたまたモテる極意など、多種多様な世の中の事象に関して鬼のような量の知識を持つ「読書猿」というブロガーが世に放った本です。
「猿」という名前は「読書家、読書人を名乗る方々に遠く及ばない浅学の身」である自身の未熟さを嘆いてつけたそうですが、彼のブログを少し読むだけでも、このセリフがとんでもない謙遜だとわかります。彼が猿なら俺たちはいったい何なんだ。モモンガ?
どのページを読んでも、濃厚な知識とウィットに富んだ軽い文体があふれています。
こんなに面白い文章を書ける人が本気を出せば、そりゃあ面白い本ができあがるはずだ、という無根拠な自信を持って、ぼくはこの本を買いました。そして、この判断が間違っていなかったことをすぐに思い知ります。
この本は、自身の人生に立ちはだかる様々な問題にいかに立ち向かうかを、巨人の肩を借りながら論じていきます。
作者はこの本(と一つ前に出版したアイデア大全という本)によって、「再現性の無い自己啓発本を駆逐する」ことを目標としています。
多く出版されている自己啓発本の、問題解決を謳う主張の根拠のほとんどが、「筆者の経験」なのです。私は朝四時に起きることで人生がうまくいくようになった。ぼくは十代のころから起業したおかげで成功者になれた。でも、100人が同じことに取り組んで100人とも成功できるかと問われたら、首を横に振るでしょう。その主張は「筆者の意見」を中心に形成されたもので、客観性が保証されていないからです。
個人的には、論文と違って本は100人に読まれたら100通りの解釈があっても許される媒体だと思っています。だから、99人にとっては当てはまらないような主張でも、一人に刺さればいい。という態度で本を書くという「姿勢」そのものに関しては賛成です。中身はともかく。
でも、「読書猿」さんはこの姿勢に断固として反対し、「誰が取り組んでも役に立つ」問題解決方法を集めました。そうしてできたのがこの本です。
と、ここまで書いてきたのですが、実はなかなか読み進められていません。
この本では問題解決の方法、具体例だけでなく、「その問題解決法の学術的ルーツ」を紹介しています。というより、主にそのルーツを紹介するのがメインになっています。
その方法が紹介された本や論文はもちろん、その本や論文の著者の思想や歴史上の背景、その方法に関連した様々な文化の紹介がなされています。
心して挑まないと読破できませんが、一章を読むだけでも学問分野の入門編を読んだような達成感があります。
前回読んでいた分も合わせてようやく、本当にようやく半分くらい読めたので、今日は一番最近に読んで頭に残っているものについて話して締めようと思います。
やるべきことにとりかかれない、試験が近いのに勉強をする気になれない。そんなときが往々にしてあります。そんな先延ばしを今日で終わりにするために提唱された方法が「ぐずぐず主義克服シート」というものです。
やるべきことにとりかかりたいのに先延ばしにしてしまうのは、取り掛かり始めていないがためにそのことを「難しいと思い込んでしまう」という考え方があるからです。
それを克服するためには…。どうすればいいかはぜひ自分で買って確かめてみてください。
それよりもぼくがこの章で話したいと思ったのは、一番最後に書かれてある話です。少し引用します。
~(略)~
先延ばしがいかに悪い結果をもたらすかを述べ立てる脅迫めいた解説は、むしろ不安を高め、先延ばし克服を先延ばしさせて、悪循環を余計に悪化させる恐れもある。
そこで、先延ばしを克服するのではなく、人間の「仕様」として受け入れ、利用するアプローチを紹介しよう。~(略)~
これまでさんざん悪役扱いされてきた「先延ばし」を、不変のものである「仕様」として受け入れるという考えにしびれました。普段は部屋なんて片付けなかったのに、テスト期間になると比較的家が整えられた大学生時代を思い出します。(あくまで比較的です)
敢えて重要なタスクを自分の生活に組み込むことで、これまで手を付けてこなかった仕事を片付けるという方法は、これまで肝心なことを先延ばしにしてきたダメな自分がいるからこそ、説得力に満ちた方法であることがわかります。
結局、昨日も「日々の作業が終わったらこの本を読もう」と考えながら帰宅したのに、片付けに精を出し、筋トレを普段以上に頑張り、ご褒美のアイスを食べて寝るというコンボをかましてしまいました。結果的に普段色々できたのでオッケーということで。
ではでは。