後藤を持ちながら

後藤を持ちながら

吹奏楽から仮面ライダーまで

相棒銃

こんにちは、トサカです。

 

いつ頃か忘れてしまいましたが、「特撮好きな女子があーだこーだ」みたいな意見が一瞬爆散しては消えていくという現象を観測しました。正直手垢にまみれていてもう使われることはないだろうと思っていたのですが、人によってはまだまだ新鮮な話題のようです。

よく聞く非難の一つに「特撮を観るのはどうせイケメン俳優目当てだろう」というものがあります。「顔」のいい人にばかり注目するミーハーじゃないか…なんて論調なのですが、これを言われると実はぼくも「非難されるべき」特撮ファンなのかもしれません。

 

なぜならぼくは、「ガワ」を目当てに特撮を観ている節があるからです。

 

特撮界隈における「ガワ」とは、変身後の姿のことです。

スーツの正統派な(たまに奇抜な)デザインと、スーツアクターの魅せる動き、そしてそのキャラを演じる俳優がさまざまな感情を込めながら紡ぎだされたセリフがバチンとはまった時、脳内から幸福がじわじわと身体中に染みわたるのです。時にカッコよく、時にかわいく、時に面白く見せてくれるその「ガワ」に、ぼくは心を打たれます。

 

今抜群に好きな「ガワ」は間違いなく「ルパンレッド」です。

現在放送中の「快盗戦隊ルパンレンジャーVS警察戦隊パトレンジャー」の「快盗」側のリーダー格です。「戦隊」どうしが一年間にわたって敵対関係を続けていくという斬新なコンセプトのもと始まったこの番組ですが、その「戦隊としての特色」はアクションシーンにも色濃く反映されています。

「快盗」側は「華麗」というイメージから、パルクールのようにあちらこちらを飛び回るアクションが多いです。敵の攻撃をするりとさけ、的確に相手の金庫に眠るお宝を頂くような動きをしています。一方、「警察」側は「剛健」というイメージから地に足の着いた、型がきちんとある武道のようなアクションをしています。がっつりと相手を捕らえ、確実に倒していくような動きをしています。この対比が見ていて面白いのです。

どちらもまっとうにかっこいいのですが、34話でルパンレッドがとある武器を手に入れた姿があまりにもカッコよく、自分の「ガワ勢力図」が一気に塗り替えられました。

「ルパンマグナム」です。

 

この話は端的に言えば「お宝を見つけにダンジョンへ乗り込む」話でした。「快盗」たちはダンジョン内の罠を難なくこなしていきますが、お宝であるルパンマグナムを前にしたとき、最後の罠である異世界空間に三人それぞれが閉じ込められてしまいます。

異世界空間の中には自分たちが快盗になった理由ともいえる、救いたい、取り返したい大事な人がいました。彼らがその異空間から出られるたった一つの条件、それは「大事な人を撃つこと」でした。たとえ異世界であれど、大事な人は撃てなかったブルー、イエロー、そして追加戦士のエックス。しかし、ただ一人レッドだけは違いました。

彼は、帰らぬ人となってしまった兄の考えを聞き「人としての差」を見出します。自分は兄貴ほどまっすぐで純真な人間にはなれないと自覚しているのです。そして、「快盗としての才能」を自分の中に見出し、おそらく誰からも祝福されないであろう「怪盗を天職としている」ことを兄に宣言します。そして、「俺のやり方であんたを助ける」と力強く言い放ち、その引き金を兄に向けて引きました。

彼はアルセーヌ・ルパンに認められ、その財宝である「ルパンマグナム」を手に入れました。その威力はあまりに絶大で、既存の武器では全く破れなかった敵の障害物をどストレートに破ります。追尾機能も、連射性能もありません。あるのはただ純粋な威力だけ。ただ、それだけで相手を圧倒できるのです。このルパンマグナムを使った必殺技は、レッドの悲痛な覚悟に見合った威力で相手の身体に風穴を開けます。

そして、昨日の放送で魅せたルパンマグナムと普段使いであるVSチェンジャーの「二丁拳銃スタイル」がほんっっとにカッコよかったのです。ルパンマグナムに軽くキスをして二つの銃をさばき、雑魚敵をばったばったと倒していきます。物陰に隠れた「今日の獲物」を、物陰ごとぶち抜いて明るみにだしてしまうというその姿に見事惚れてしまいました。かっこいい~。

 

浮かれ気分のまま、ぼくはおもちゃ屋へ。

そのままの勢いで、買っちゃいました。ルパンマグナム。

 ずっといじってられます。楽しい。最高。いい。

がしがし変形させて遊んでいると、そのまま30分くらい時間が溶けていました。「撃つ」と「変形する」しかギミックはないのに、すさまじいおもちゃです。幸福。大満足。Happy。

今も思わず見とれています。恋ってこんな感じなのかしら。オホホホホ。

 

しばらくはこいつで遊んじゃいそうです。勉強進まねー!

  

 

ではでは。

いろいろ

こんにちは、トサカです。

 

ランドセル、それは六年間変わることなく使い続ける「愛用品」でした。みなさんはどんなランドセルを使っていましたか?

ぼくらが子供の世代は、「男の子は黒、女の子は赤」のランドセルが鉄板でした。他の色を使っている同級生は全く見かけませんでした。しかし、ぼくは小さかったころから擦れた男だったので、深みのある緑のランドセルをねだりました。当然親からの返事はNO。あんたこんな変な色を使っていると周りから浮くよ!と注意され、しぶしぶ黒いランドセルを買ってもらいました。

特撮番組を観ているとランドセルのCMを見る機会が一般的な成人男性の数倍は多くなります。自分が生まれ育った時代と比べてみると、ランドセルのカラーバリエーションは抜群に増えています。別に多様性があることがすべからくいいことというわけではないことはわかっているのですが、そのCMを観るたびに「あとちょっと生まれる時代が遅ければ…」なんてことを考えます。

あと、不思議に思っているのが「女の子特有のカラーは赤」という風潮です。赤は「レッド」の赤では…?(スーパー戦隊脳)

 

色に対するイメージは文化によって違いが出ます。

例えば「アダルト」な雰囲気を醸し出しているときのイメージカラーですが、日本ではピンクが使われるのに対し、欧米では「青」が使われることが多いそうです。どちらかと言えばピンクは健康的なイメージを出したい時に用いられることが多いそうです。blue filmという言い回しを見て「まだまだ若くて幼い少年たちの青春劇」だ~なんて思い違いを起こし、開始十分で顔を真っ青にして出てくるようなことも起きちゃいそうです。

日本では青があてはまりますが、英語におけるこういった「若さ、未熟さの象徴」をイメージさせる色は「緑」だそうです。greenhornで初心者、未熟者という意味があるそうです。

 

たしかにブルーは冷静沈着、独特な色気を出す二枚目キャラのイメージがあるし、グリーンは少し未熟な、だけれども組織に縛られない柔軟さを持っているイメージがあります(スーパー戦隊脳)。こう考えると、そういった英語のイメージに忠実に作っているのかもしれません。

 

と、いうわけで「快盗戦隊ルパンレンジャーVS警察戦隊パトレンジャー」、まっじで面白いので見てください。

 

ではでは

「わかりやすいもの」の危うさ

こんにちは、トサカです。

 

ファストフードが好きです。

マクドナルド、モスバーガーロッテリア、忘れちゃならないバーガーキング。毎日食べろと言われたらさすがにしんどいですが、たまにどうしようもなく身体がそれを求めるときがあります。あのホクホクで少し塩気のききすぎたポテトを、氷に味が乗り移ってしまっているコーラを、そして野菜と肉がぎゅっとバンズに挟まれたハンバーガーを、無性に食べたくなります。

今の自分の生活は、大学時代と比べてずいぶん秩序が保たれていると思います。部屋もそこそこきれい(昔と比べると、足の踏み場がきちんと確保されているし、洗濯物も定期的に片づけられています。)だし、ごはんもそこそこバランスを考えて作っています。

ただ、ずっっっと綺麗なままにしているといささか居心地が悪く、たまに乱したくなります。ぼくは「生活の秩序を少し崩す」ために、少し乱雑で、でもめちゃくちゃ魅力的なファストフードを食べています。

 

だから、マックが正直に消費者の声を聞いて「健康志向」になったとき、あまり足を運ばなくなっちゃったんですよね。その「乱れ具合」に魅力を感じていたのに、角を取って丸くしていこうという方向性に走ってしまった。「わかりやすい」意見は確かに取り入れたくなるものですが、少なくともぼくはマクドナルドに惹かれなくなってしまいました。

現在はそこから脱却し、「乱れたい人はとことん乱れたメニューを!そうでない人はそれなりに」という方針で営業していますね。ハッピーセットのCMの最後に「野菜を食べよう!」というキャッチコピーとコーンの入った容器が映るのですが、時間としてはとてもわずか。ここに重きは置いていないのでしょう。でも、彼らの「長所をめいいっぱい生かす」という戦略は、繁盛している店内を見ただけで正しいのだと実感できます。

 

この「目につきやすい間違っていそうな箇所を修正する」というのはコードを書くときにもよくやらかします。

初学者である自分にとって、目が回りそうなほど多量のコードで書かれたプロジェクトと対峙しています。新たな処理を追加してほしいという仕事をよくやるのですが、すこしコードの中身を変えただけで全く予期していなかったところからがんがんエラーが出てきます。

最近になってようやく「どの辺がかみ合っていないか」がわかるようにはなったのですが、具体的に「どこ」が問題なのかはいまだにさっぱり見当がつけられません。ここを修正しさえすればこの労働地獄から解放されるんじゃ。えいやっ。とコードを直した時は、たいていエラーを吐かれて終わります。

 

これも「目につきやすい間違いを修正する」だけではうまく立ち回れない好例です。実際は変数が他の同じようなものと少し中身が違うとか、参照すべきものを上手く呼び出せていなかったとか、そういった小さなことが積み重なってこんがらがって「複雑なバグ」は現れます。これを「えいやっ」と直せるのはよっぽどスーパーな方のみです。

わけわからんバグに出会った時、まずはそのバグの根源に何が存在するのかを見極めるようにしています。折り重なったバグを取り除いてほどいた先に、ようやく解決の糸口が見えることがこの半年でよくわかりました。「わかりやすいもの」に飛びつかず、じっくり考える。そういった時間が大事ですね。

 

ちなみに、来週の金曜が期限だった仕事の締切がいきなり今週の金曜までになってしまい、アホみたいな顔でキーボードをたたきまくっています。

 

ぷりーずぎぶみーじっくり考える時間~!

 

ではでは。

コンセプチュアル

こんにちは、トサカです。

 

日曜日の始まりの楽しみがニチアサ(仮面ライダースーパー戦隊の番組枠)ならば、日曜の終わりの楽しみはクラシック音楽館です。Eテレなら宮崎でも映るので、これまでも実家に帰ったりしていた時はたまに観ていました。しかし、テレビが届いてからさらにはまってしまいました。

今住んでいるところで初めて観たクラシック音楽館は、「ダーウィト・アフカム」が指揮を振った第1877回の定期演奏会です。後半のプログラムが二曲とも好きなものだったのですごくうれしかったのですが、指揮者ダーウィトのそのときのインタビューが非常に興味をそそられるものでした。

 

曰く、「ストーリー性のあるプログラム」を目指し、どのような曲を演奏するかを選択したそうです。超絶技巧が光る曲ばかり集めたり、世代が同じ作品を集めただけのプログラムではなく、曲に込められた哲学やその曲が秘めるドラマ性、音楽学など、少し掘り下げたところで一貫したテーマがあるプログラムにこそ、その曲目の魅力をより一層引き出すことができるのだと話しています。

その回のクラシック音楽館で演奏されていた、ぼくの好きな曲は、R.シュトラウス作曲:歌劇「ばらの騎士組曲と、M.ラヴェル作曲の「ラ・ヴァルス」です。

ダーウィトは「ワルツ」と「悲劇」という観点からこの二曲について語っています。「ばらの騎士」は貴族社会がすでに没落の道を歩み始めている18世紀末を舞台としていますが、その中で生きる人たちの三角関係を豪華絢爛に描いています。「ラ・ヴァルス」は第一次世界大戦を経たラヴェルが、その動乱に影響されて作られた「狂気に満ちたワルツ」です。どちらも一見明るい曲調ですが、それぞれの曲が持つ背景には薄暗い物悲しさがあるのです。

このように一定のテーマを定めたうえで、こちらが意図したテーマを醸し出すことが「演奏会の目的」とダーウィトは語ります。

 

これまでに聴いてきた演奏会の中で一番感心したプログラムは、「神」をテーマにしたものでした。

一見何のつながりもないように見える曲目が、実はすべてなんらかの神をテーマにした曲であったのです。例えば、出雲神話に出てくる神をテーマにした曲があったり、賛美歌を変奏曲にした曲であったり、その曲の一幕で教会に祈りをささげる人々を描写する場面があったり…。一部と二部の間にパンフレットを読んでこの事実を知り、めちゃくちゃ驚いたことを覚えています。

一本筋の通ったテーマがあると、どうしてもその視点から聴きたくなってしまうのが人の性。いつもの聴き方に加え、少し別の角度から好きな曲を楽しめるのです。個人的には、こういったコンセプトがある演奏会がもっと増えるとうれしいです。

 

 

ではでは

死にゆく

こんにちは、トサカです。

 

先週の仮面ライダージオウで、長くはもたない息子がいる父親が、怪人にさせられていました。彼は息子と同じ位の身長の人間を襲い、植物人間状態にする事で心臓のドナーを見つけようとしていました。最後は主人公が機転をきかせたおかげで彼の息子は救われたのですが、僕にはこの話ですごく印象に残っているセリフがあります。

父親が怪物から少しだけ「人間の姿」に戻った時のシーンで、主人公たちが人々を襲うのをやめさせようと説得しているという状況です。今は父親であるあなたが息子のそばにいてあげなければならないと強く言い放つ医者のライダー、仮面ライダーエグゼイド。怪物を止めてその力を受け継がなければならない仮面ライダージオウ。そんな彼らに、父親は叫びます。

「息子が死んでいくのを黙ってみてろと言うのか」

そう言って彼は再びその姿を怪物に変え、街へと消えて行くのです…。

 

幸福なことに、今のぼくには「死んでいく」親しい人はいません。そりゃあ長い目で見れば誰しも「死んでいく」人々ではありますが、そんなことずっと考えながら生きてたら疲れちゃいますよね。とりあえず今のところは、この問題はそこまで喫緊に迫ったような問題ではありません。でも、余裕がある今だからこそ、少しこれについて考えてみようと思います。

 

「息子を助けるために怪物にされてしまう」ことはまぁ今の日本ではないでしょう。ぼくは街中で怪人も怪獣も、そしてそれを打ち砕くためのヒーローも見たことはありません。

しかし、彼と同じような状況に陥る可能性は十分にあります。

例えば、医学的な根拠は薄弱で、かつ特定の個人または団体に莫大な金を巻き上げられるような「医療」行為があったとします。あるのは「絶対治ります」という担当者の言葉のみ。普通ならまず疑ってかかるでしょう。でも、これが大事な人が現代医療では治すことができないと診断され、現代に絶望してしまった人なら?

 

以前とある有名人が大事な人の治療を「医療」に任せたことに「お怒り」していた人たちがいました。かつてはぼくも「ちょっとなぁ」なんてことを思っていましたが、今はその気持ちがすこしだけ理解できるようになりました。

日々「死んでいく」大事な人の様子を見て、どうにもならないことだとどこかで分かっていはいるのです。しかし、その事実を受け入れるというのは想像を絶する痛みでありましょう。藁にだってすがりたい人々なのです。そういった人たちの受け皿として、「医療」はあまりにもよくできているのでしょう。「治らないとされていたものを治す」という現代医学に不信感を抱いていた人々に贈るアンチテーゼとして、この「医療」はすがる人が後を絶たないほどの魅力を持つものであるのです。

 

恐らく自分は割と用心深いので、同じ状況に立たされた時にぼくは「怪人」の道を選ぶことも、「医療」に頼ることもしないでしょう。しかし…、ではぼくは何にすがればいいのか。大事な人が「死んでいく」状態の時にぼくはなにができるのか。この辺は、これからもう少し大人にならないとわからないことだと思います。(先に自分が死にゆく状態になっちゃったりして笑。)とりあえず自分が窮地に立たされた時に何にすがるのか、これからの人生でこの疑問に決着を付けられたらいいなと思います。今のところ仮面ライダーかな。

 

ではでは