後藤を持ちながら

後藤を持ちながら

吹奏楽から仮面ライダーまで

悪の定義

こんにちは、トサカです。

 

神 :最低でも240万

悪魔:10

 

これは、聖書の中でそれぞれが殺した人の数です。さらに、これに加えて神は洪水や飢饉、疫病などにより間接的に人を殺しまくっているので、この数値はひょっとすると10倍程跳ね上がる恐れもあるそうです。当時の人口を考えると、とんでもなく大規模な殺戮だったことがわかります。

数だけを見れば神の方が「悪」だと思われますが、決してそれは殺戮を行いたいという身勝手な理由ではなく試練のニュアンスが強いのでしょう。しかし…。

 

今読んでる本で、「悪という気持ちを抱いたまま人を殺すことができる人は少ない」という話がありました。自分が悪であることを自覚している人は多くの人を殺せないし、そこまで悪いこともできない。自分の行いを前にして挫折してしまうそうです。

逆に、自分が正しいことをしていると感じているなら、人はどんなことでもできるとその人は語ります。反論してきたひょろひょろの同級生を殴ってもいい。なぜなら彼は俺に口答えしてきた「悪」だから。戦場に立つ相手をはちの巣にしたっていい。なぜならこれは正義の名のもとに「悪」を駆逐しなければならないから。地下鉄で毒ガスをばらまいてもいい。なぜならこの世界の「悪」を我々の手で浄化しなければならないから。

自分のやっていることが「正義」の名のもとに正当化されていれば、自身の行いに対する重石、または自制心がふっと取れて心も体も軽くなります。その状態を、人は「悪」と呼びます。

 

アメコミ好きの友だちが、「マーベルの悪役は自身の信念に基づいて行動を起こしているから、自分のことを悪だと思っていないところが好き」という風に語っていました。この話を聞いてぼくは、あらためて「悪とは何か」を考えています。

たぶんぼくの中での「悪」の源流は、「魔人探偵脳噛ネウロ」に出てきた「シックス」だと思います。人を殺す兵器を7000年にわたって作り続け、跡取りを「悪意の強さ」で決めてきた結果生まれてきた「新しい血族」の申し子。新生児だった彼に剃刀を持たせれば同じ部屋にいた他の赤ん坊を全て殺し、わずか五歳で両親に手をかけます。人に不快感と絶望を与えることを生きがいとする彼に、主人公たちがどう立ち向かっていくのか。胸のあたりをずきずきさせながらもリアタイで読み切りました。

 

「悪いことをする」ことを自身の生業とし、その重荷に平然と耐えられる人や組織を「純粋なる悪」と呼ぶならば、最近ぼくが触れた創作物では仮面ライダービルドのラスボスくらいです。という風に考えると「不純な悪」には、裏に悲しげな過去や理路整然とした理由があります。では、純粋な悪と比較した場合に不純な悪は許されるべきなのか。その人自身から見れば立派な正義であるその行為は、どこまでが正義と呼べるのか。

 

この辺を考え出すと本当に夜眠れなくなってしまいます。そして朝が辛い。

なので今日はこの辺で考えるのをやめようと思います。もう少しこの話が熟成したら、また書こうと思います。

 

ではでは